甲斐 甲府城(甲府市)

徳川幕府が中仙道の治めとして重視し、直轄領とした

別名

舞鶴城・甲斐府中城

所在地

山梨県甲府市丸の内1丁目

形状

平山城

現況・遺構

現況:舞鶴公園
遺構:曲輪跡、石塁(二の丸・台所・鍛冶・稲荷・数寄屋の各曲輪)、天守台、復元門、石垣、内堀(水堀)

満足度(10点満点)

7点

訪城日

2001/10/06

歴史等

天正10年(1590)武田家滅亡後、甲斐は織田信長が領したが、本能寺の変後、徳川家康の手に落ちた。 家康は甲斐一国の支配に相応しい巨城の建設を決意し、甲府盆地の中央に近い一条小山を選んだが、工事はあまり進まないままに、 家康は関東に移り、甲斐は豊臣氏のものとなり、後へは羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長が入り、城をほぼ完成する。
関ヶ原合戦後は、江戸の西を守る拠点として特別に重要視され、徳川家直轄の城として、徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、 綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(のちの6代将軍)ら徳川一門が城主となり、城番・城代制が敷かれた。
一時、例外として、宝永2年(1705)に徳川綱吉の小姓から大名に成り上がった柳沢吉保が15万石を領して城主となるが、 2代で大和郡山に移ってからは、 甲斐は一国天領となり、老中配下の甲府勤番支配となった。江戸初期以来あまり整備されなかった甲府城であるが、柳沢吉保によって補修され、 建物も増築されたが、享保12年(1727)に火災でほとんどが失われ、復興されないまま明治に至った。
なお、天守台はあるものの、天守は築かれなかったとされているが、近年の発掘調査などにより、 当初築かれていたという説も有力になってきている。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

私にはあまり印象のない城であるが、中央線の甲府駅から随分立派な石垣があることに、 以前から気が付いていて一度寄ってみようと思っていた。
しかし、歴史的に親近感がないせいか、非常に綺麗で、よく整備・復元されている城址でありながら、あまり感慨といったものが感じられない。
それでも、打ち込みハギや切り込みハギの石垣・高石垣は見事なものであるし、穴太積の天守台もなかなか立派なものである。 また堀幅もかなり広く、各門や橋との調和もよくとれていて素晴らしい。とても城代だけが置かれていた城とは思えないものがある。
(2001/10/06訪城後)

ギャラリー

梅林門

本丸・天守台跡

本丸から甲府市内を

見事な石垣

内堀(水堀)

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