本丸跡に残る天守台
徳川幕府が中仙道の治めとして重視し、直轄領とした
別名
一条小山城、舞鶴城、甲斐府中城、赤甲城
所在地
山梨県甲府市丸の内1丁目、舞鶴城公園
中央本線甲府駅の南東すぐに舞鶴城公園、北東すぐに歴史公園
形状
平山城
現状・遺構等
現状:舞鶴城公園、歴史公園
遺構等:曲輪、石垣(二の丸・台所・鍛冶・稲荷・数寄屋の各曲輪)、天守台、復元櫓(稲荷櫓)、復元門(内松陰門・鍛冶曲輪門・稲荷曲輪門・
山手門・山手渡櫓門)、内堀(水堀)、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2001/10/06
2009/11/03
歴史等
甲府城は、武田太郎信義の長男(二男という説もある)の一条次郎忠頼が築いた城で、幕末までこの丘陵地を「一条小山」と呼んでいた。
忠頼は、武田の勢力を拡張するために分家し、まだ湿原地帯だった府中(現甲府)に進出し、新しい領土を開拓した。
その後、忠頼の弟の武田信光の子信長に受け継がれた。信長から14代、武田の血縁として栄えたが、
信玄の弟信竜が一条家の養子となって名跡を継いだ。
天正10年(1590)武田氏滅亡後、甲斐は織田信長が領したが、本能寺の変後、徳川家康の手に落ちた。
家康は甲斐一国の支配に相応しい巨城の建設を決意し、甲府盆地の中央に近い一条小山を選んだが、工事はあまり進まないままに、
家康は関東に移り、甲斐は豊臣氏のものとなり、後へは羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長が入り、城をほぼ完成する。
関ヶ原合戦後は、江戸の西を守る拠点として特別に重要視され、徳川家直轄の城として、徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、
綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(のちの6代将軍)ら徳川一門が城主となり、城番・城代制が敷かれた。
一時、例外として、宝永2年(1705)に徳川綱吉の小姓から大名に成り上がった柳沢吉保が15万石を領して城主となるが、
2代で大和郡山に移ってからは、
甲斐は一国天領となり、老中配下の甲府勤番支配となった。江戸初期以来あまり整備されなかった甲府城であるが、柳沢吉保によって補修され、
建物も増築されたが、享保12年(1727)に火災でほとんどが失われ、復興されないまま明治に至った。
なお、天守台はあるものの、天守は築かれなかったとされているが、近年の発掘調査などにより、
当初築かれていたという説も有力になってきている。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
私にはあまり印象のない城であるが、中央線の甲府駅から随分立派な石垣があることに、
以前から気が付いていて一度寄ってみようと思っていた。
しかし、歴史的に親近感がないせいか、非常に綺麗で、よく整備・復元されている城址でありながら、あまり感慨といったものが感じられない。
それでも、打ち込みハギや切り込みハギの石垣・高石垣は見事なものであるし、野面積みの天守台もなかなか立派なものである。
また堀幅もかなり広く、各門や橋との調和もよくとれていて素晴らしい。とても城代だけが置かれていた城とは思えないものがある。
(2001/10/06登城して)
8年ぶりに登城した。前回登城した時の印象と大きくは変らないが、新たに稲荷櫓が復元されていた。
また、夕方になり、時間がなくて、うっかり見落としてしまったが中央線で分断された北側の歴史公園に山下御門も復元再建されたそうだ。
着実に復元され、甲府の新しい観光スポットとなっているようで、今日も多くの人が訪れていた。
(2009/11/03登城して)
ギャラリー
遊亀橋(ゆうきばし)
水堀に架かる平成12年(2001)9月竣工の木製橋で、甲府城唯一の橋である。
右上には天守台石垣が見える。
内堀(水堀)
鍛冶曲輪から見上げる高石垣と天守台(右)
内堀に架かる遊亀橋を渡ると、鍛冶曲輪へ出る。甲府城址には多くの門や櫓などが復元されたが、
やはり甲府城址の魅力は壮大な高石垣であろう。鍛冶曲輪は石垣の全容を眺めることができるビュースポットである。
天守台
甲府城の天守は昭和43年(1968)の山梨県の総合調査で、絵図も記録も残っておらず、
存在しなかったとされていたが、その後、金箔を施した鯱や飾り瓦が出土し、現在、専門家の間では、
豊臣秀吉の下命により急ピッチで石垣や櫓建物などの建設が進められたとする考えが主流となっているようだ。しかし、
天守に関する資料が未だ発見されておらず、今のところ天守再建は見送る方向とのことである。
天守台穴蔵
天守台は一辺が南北約22m東西17.8m、最大比高差約13mで、反時計回りの回廊形式となっている。
天守台からの眺望
天守台からは甲府の街が一望のもとに見え、遠く富士山も眺めることができる。本丸からも見えるが、鉄塔
(電波搭?)がやたらと邪魔になる。
天守台から鍛冶曲輪を見下ろす
天守台から本丸を
本丸跡は、今は芝生広場になっているが、かつては櫓(右)と御殿、櫓門形式の鉄門(左)と銅門(正面奥)
があった。
㊧本丸櫓台と㊨暗渠
本丸北側、天守台の北西の位置に本丸櫓台が残る。本丸櫓はイタリアの第三代駐日全権公使として明治10年
(1877)から同14年まで滞日したバルボラーニが撮影した写真にも写り、
明治初期には二層の本丸櫓が実在していた事が明らかになっている。
本丸櫓台には雨水などが盛土や石垣内部に溜まらないように排水するための施設「暗渠」がある。
本丸櫓台から稲荷曲輪を見下ろす
本丸櫓台から稲荷曲輪を見下ろすと、新たに稲荷櫓が復元されていた。夕日が当たって写真が見辛い上に、
左側のノッポビルがどうも・・・・・。この向こうに、新たに山手御門が復元されたそうだが、見落とした。私としたことが・・・・・。
稲荷櫓
稲荷櫓は現在、甲府城内中唯一の櫓建造物で、江戸時代は武器庫として使われていたようであるが、
明治初年に甲府城が廃城となると取り壊されてしまい、市民の声に応えて復元されたもの。復元工事は平成14年(2003)7月より始まり、
発掘調査をもとに、当時の古写真や絵図、古文書なども参考にして行なわれ、平成16年(2005)、江戸初期の寛文4年(1664)
当初の姿が復元された。櫓本体は2層2階の木造入母屋造の本瓦葺で高さは10.865m。1階部分は桁行6間、梁間5間の123㎡、
2階部分は桁行4間、梁間3間の46㎡。
銅門(あかがねもん)跡
天守曲輪から本丸に通じる西側の門で、櫓門形式であった。
鉄門(くろがねもん)跡
天守曲輪から本丸へ繋ぐ南側の門で、こちらも櫓門形式であった。
中の門跡
天守曲輪への門。中の門を入り、天守曲輪を通り、鉄門をくぐると本丸へと入ることができる。
坂下門跡
鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸を繋ぐ門。
かつての門は築城前にこの一条小山にあった一蓮寺の門を使用していたと言われる。
内松陰門(うちまつかげもん)
屋形曲輪と二の丸をつなぐ門として、明治初年まで残っていたが、廃城に伴い破却。現在の門は、
絵図や発掘調査をもとに平成11年(2000)に復元されたもので、切妻造の高麗門である。㊧は城外側から、㊨が城内から撮ったもの。
鍛冶曲輪門
楽屋曲輪と鍛冶曲輪とをつなぐ門として、明治初年まで残っていたが、廃城に伴い破却。現在の門は、
絵図や発掘調査をもとに平成8年(1997)に復元された薬医門。
二の丸跡に建つ武徳館