陣屋跡に残る稲荷社と高札場
越後椎谷藩の信濃知行所支配のために設けられた陣屋
所在地
長野県上高井郡小布施町都住
【行き方】
長野電鉄「都住駅」の西側の踏切を約100m南下し、右手の路地を50mほど入ったところに稲荷社、高札場が残り、
説明板と標柱が設置されている。
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:宅地等
遺構等:用水堰、稲荷社、高札場、標柱、説明板
満足度
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訪城日
2009/11/23
歴史等
椎谷藩の藩祖は堀直政の五男・堀直之(飯山藩直寄、
須坂藩直重の弟)である。
元和2年(1616)7月、直之は大坂の陣の軍功が認められて、越後国沼垂郡に5千5百石を与えられ、椎谷(柏崎市)に陣屋を置いたが、
寛永10年(1633)上総国内で4千石を加増され、居所を上総国苅谷へ移した。
直之の嫡男直景は遺領を加えて1万石を領有して苅谷藩を立藩した。さらに、その嫡男直良は居所を上総国市原郡八幡に移して八幡藩を立藩した。
直良の嫡男直宥(なおさだ)は、元禄11年(1698)越後の沼垂・三島・蒲原三郡内に移され、1万石を領して椎谷に陣屋を構え、
ここに椎谷藩が立藩となった。歴代藩主は江戸定府が常であった。
寛政4年(1792)、直之から数えて第11代著朝(あきとも)の頃になると目に見えて藩の財政が悪化し、
飢饉による米価高騰のため蔵米を柏崎で競売したので農民一揆(天明義民事件)が勃発し、幕府の裁定を仰ぐこととなった。
その結果、著朝は蟄居し、新たに三河西尾藩の松平乗祐の三男彦弥
(改名して堀直起)を迎え、さらには越後内の5千石を信濃国高井郡六川村へ半地替えが行われた。その時、
六川に信濃分5千石の陣屋が設けられた。
明治4年(1871)第16代之美(ゆきよし)のとき廃藩置県を迎えた。
『「現地説明板」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
六川陣屋(ろくがわじんや)は、今では宅地の中に埋もれてしまい、稲荷社(奥田神社)、高札、用水堰、石垣
(説明板に残っているとあったが、どれのことかよく分からなかった?)が残っているだけである。
現地説明板によると、かつては六川通りに面し、東西35間(約63.7m)、南北70間(約127.4m)の敷地に庁舎、御蔵、
藩士長屋が建ち、明治元年(1868)には藩校・六川修道館が置かれていたという。
(2009/11/23訪れて)
ギャラリー
陣屋跡地に建つ 高札場
僅かに残る用水堰