相模 荻野山中陣屋(厚木市)

山中陣屋跡史跡公園の片隅にたつ城址碑

小田原藩から分知されて立藩し構えられた陣屋

所在地

神奈川県厚木市中荻野、山中陣屋跡史跡公園
【行き方】
国道412号線の信号「山中城址」の南東角の小公園。公園に駐車場(8台)があるが、 中央分離帯があるため国道412号線を北から南方面への車線からしか入れない。

形状

陣屋

現状・遺構等

現状:山中陣屋跡史跡公園、田畑、民家など
遺構等:移築門、石碑、説明板

満足度

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訪城日

2009/11/07

歴史等

元禄11年(1698)、小田原藩主大久保忠朝は家督を長男忠増に譲って隠居したが、 その時次男教寛(のりひろ)の荻野の地に6千石を与えて分家させた。
宝永3年(1706)江戸城西の丸若年寄にすすみ駿河国駿東・富士両郡内において5千石を加増され、1万1千石の大名となり、駿河国松永村 (沼津市)に陣屋を構え立藩した。享保3年(1718)5千石を増加され1万6千石のなったが、次の教端(のりまさ)の時に弟教平 (のりひら)に3千石を分知した。
5代教翅(のりのぶ)が、天明3年(1783)に松永村陣屋を相模中荻野村山中に移し、荻野山中藩が立藩した。
以来、その子孫は明治まで4代88年間、荻野山中藩主として続いた。
最後の藩主教義の時、大政奉還もすでに決定した慶応3年(1867)12月、薩摩浪士に襲撃され陣屋を焼かれた。これは、 討幕運動の一環として関東の擾乱をねらったもので、鳥羽伏見の戦いの導火線となったと云われる。
慶応4年(1868)16代徳川家達の駿河藩の成立に伴い、駿河国における藩領は、相模国内に移されたが、わずか4年で廃藩となった。
『「国別・藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文芸春秋刊)」 参照』

現況・登城記・感想等

荻野山中陣屋は、昭和45年(1970)に市史跡に指定され、その後、発掘調査により、建物の位置等が確認されたそうだが、 史跡保護のため盛土がされ、今では御殿が建てられていた小高い台地部分が小さな公園(山中陣屋跡史跡公園) となって石碑と説明板が設置されているだけである。
なお、福伝寺に陣屋裏門と伝わる山門が残っている。
(2009/11/07訪れて)

ギャラリー

公園入口の案内石碑
国道412号線沿いに「山中陣屋跡史跡公園」の案内標識と石碑がある。

公園内に設置された説明板
城址は小さな公園となり、陣屋の縄張図の付いた説明板が設置されている。

城址碑と説明碑
公園の片隅には、「山中城址」と刻まれた石碑と銅板に荻野山中藩の説明が刻まれた碑が設置されている。

公園全景
山中陣屋跡公園は、のどかな田園地帯の丘の上にある。高台がそれとなく陣屋跡っぽい!?

移築陣屋裏門(福伝寺山門)
福伝寺(厚木市王子)の山門は陣屋裏門が移築されたものと伝わるが、 陣屋は幕末に焼失しており果たして真偽のほどは・・・?尚、山門は平成元年(1989)に大改修が行われており、屋根は銅板葺きである。

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