甲斐 深草館(北杜市)

南郭北東角の土塁上から北郭を

逸見清光の家臣堀内氏の居館?

別名

深草城、深草塁

所在地

山梨県北杜市長坂町大八田字新居、金生遺跡の南西約250m、金生遺跡の駐車場を利用

形状

現状・遺構等

現状:雑木林(県指定史跡)
遺構等:郭、土塁、堀、虎口

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2009/11/03

歴史等

谷戸城を中心とした八ヶ岳南麓には、若神子城 笹尾塁・中尾の塁・旭山砦・源太ケ城・新井館・中丸砦など逸見清光伝承をもつ城館跡が多くある。
深草館と谷戸城とは従来から、 居館と要害というセットとしての関係が指摘されてきているが、深草館について「甲斐国志」には「清光の家臣堀内下総守の居館」 という内容があり、「下総守の子・主悦助の時に落城した」とある。下総守は元亀・天正年間(1570~92)頃に生きた人物であり、 その子主悦助の時に落城したことになる。
しかし、甲斐国内で戦乱が起こったのは天正10年(1582)の武田氏滅亡後の徳川氏と後北条氏とのいわゆる「天正壬午の戦い」 以外にはほとんどないことから、廃城はその頃と考えた方が妥当なようだ。
また、築城時期も不明で、伝承内容から清光の家臣とすれば、平安時代後期ということになるが、 やはり時代はそれよりもかなり下るものと考えられる。
『日本城郭大系8(新人物往来社刊)より』

現況・登城記・感想等

深草館跡は、堀(一部川を利用)によって囲まれた南北2つの郭からなる。
北郭は四方が土塁に囲まれ、東西約40m、南北約40mの広さがある。土塁は東側と北側が高く、郭内側から約2m、西側は約1m前後である。 南側の土塁は中央が低くなり、南郭への虎口になっている。北側土塁外側には幅5m、深さ4mほどの堀があり、左右の川と堀に通じている。
南郭は東西約40m、南北約80mもの広さがあり、北側に北郭と接する虎口を持つ土塁が東西両側を南へ半分ほど延びている。 北西角と北東角は一段と高くなっており物見台であろうと思われる。
東側から南側にかけての堀は規模が大きく、幅約10m、深さ約5mもある。
堀には西衣川の水を北約100mの所から引き入れている。
登城前は、深草館跡が、まさかこれほど規模も大きく、 しかも良好な土塁や空堀などの遺構が残る城址とは思ってもみなかったので得をした気分だ(^^)。
(2009/11/03登城して)

ギャラリー

深草館全景
金生遺跡の南約250mにある雑木林が深草館跡である。金生遺跡の西約100mのところを南北に通る道 (写真右)を南へ進むと館跡へ出る。左後方(南東)には富士山、右後方(南西)には南アルプスが見える。

八ヶ岳
館跡への道を振り返ると雄大な八ヶ岳の姿も。今日は、まだ11月3日だというのに途轍もなく寒く、 それだけに空気も澄んで山並みがくっきりと見えた(^^)。

東側の堀へ続く水路
館跡へと進んで行くと、くねくねと曲がった小川が見えてくる。この水路は、 西衣川の水を北約100mの所から引き入れているものだそうで、館の東側の堀へと続いている。また、写真右側の畑も郭跡の一部らしい。

館の西を流れる西衣川
館の西には西衣川が流れ、堀の役割を果たしている。

北側の堀
北郭の北側には幅約5m、深さ約4mほどの堀が掘られ東側の堀と西側の西衣川と繋げている。

北側の堀に架かる丸木橋
館跡へ入るには、北側の堀に架かる丸木3本で造られた橋を渡るしかない。ところが、この丸木が、 かなり朽ちてきているようでおそるおそる渡った。落ちたら深さ4mの奈落の底だ(汗)。

北虎口
丸木橋を渡り、正面の坂を登ると北郭への虎口へと出る。坂道は、昨夜来の雨で滑りやすくなっており、案の定、 2mほど滑り落ちてしまった(汗)。お陰で服とパンツだけでなく、腕時計まで泥だらけ! しかし、デジカメだけは離しませんでした(^^)。

北郭
虎口から入ると、土塁に囲まれた北郭が目の前に現れた。雑草まみれの郭跡を想像していたので、 嬉しくてウォッ!と唸った。北郭は四方が土塁に囲まれ、東西約40m、南北約40mの広さがある。土塁は東側と北側が高く、 郭内側から約2m、西側は約1m前後である。

北郭東側の土塁

北郭と南郭間の虎口&南郭東側の土塁
北郭と南郭の間の土塁は中央が低くなり、南郭への虎口になっている。北西角と北東角(写真左隅) は一段と高くなっており物見台であろうと思われる。

南郭
南郭は東西約40m、南北約80mと相当な広さがあり、 北側に北郭と接する虎口を持つ土塁が東西両側を南へ半分ほど延びている。

南側の堀
東側から南側にかけての堀は規模が大きく、幅約10m、深さ約5mもある。

南郭の東側の堀

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