相模 糟谷館(伊勢原市)

糟谷館跡とされる産業能率大学が建つ台地

扇谷上杉定正による太田道灌暗殺の舞台

別名

扇谷上杉氏館

所在地

神奈川県伊勢原市上粕屋1573、産業能率大学
産業能率大学:0463-92-2211

形状

現状・遺構等

現状:産業能率大学、原っぱ、市街地など
遺構等:太田道灌墓(県道611号線の山王中学校前信号を北東へ約300m行くと右手に)

満足度

-----

訪城日

2009/11/08

歴史等

糟谷館(かすやのたて)は2つの城址がある。上粕谷山王原にあるのが「扇谷上杉氏館」、下粕谷高部屋神社一帯にあるのが「粕谷氏館 (糟谷左衛門尉有季居館)」である。
一般的に、糟谷館といえば上杉館を指すようであり、「新編相模国風土記稿」には、上粕谷の地に扇谷上杉定正の館があったと伝えられているが、 「新編相模国風土記稿」には、その正確な位置は示されていない。
扇谷上杉氏は、鎌倉扇谷に日常の館を構えており、ここは知行地の支配の拠点であった。
古河公方足利成氏が鎌倉を離れたのち、扇谷定正は粕谷を本拠とした。
糟谷館が一般に知られているのは、文明18年(1486)7月16日の扇谷上杉定正による太田道灌暗殺の舞台としてであろう。
山内上杉顕定は関東管領職にあったが、扇谷上杉定正の家宰である名将太田道灌の活躍によって、扇谷氏の勢いは山内氏を凌ぐほどになった。 心中おもしろくない顕定は、定正に「道灌は主家を乗っ取ろうとしている」と吹き込んだ。これを真に受けた定正は、道灌を糟谷館に招き、 風呂場にて暗殺した。
『「日本廃城総覧(新人物往来社刊)」、「日本城郭大系6(新人物往来社刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」参照』

現況・登城記・感想等

糟谷館といえば、誰しも思い起こすのは「太田道灌暗殺の地」であろう。
まずは、館跡の南東7~800mほどのところにある太田道灌の墓にお参りしてから登城。
館は、扇谷上杉氏館=糟屋館と思っていたのであるが、必ずしもそうではないようで「扇谷上杉氏館」と「粕谷氏館(糟谷左衛門尉有季居館)」 の戦国期前半の歴史上の位置づけがどうもよく分からない。
地元の伝承によると、上杉館跡は産業能率大学の辺りの台地ということになっているようで、大学建設前の発掘調査で、室町時代の建物跡 (1箇所のみ)や大溝や土手などが確認されたそうだ。
また、地元の方に尋ねると、以前は台地の南方に空堀が残っていたとのことだが、今はほとんどが広大な畑や野っ原になり、 遺溝は全く確認できない。
天然の濠である谷に挟まれた大きな台地上に構えられた巨大な館であったと考えられないことはないが、あまりにもだだっ広くて、 当時の城郭地としては不適な地に思われる。何故なら、当時の動員兵力を考えると、これほど広大な城地は防衛上、 大きな弱点になると思えるのだが・・・。
(2009/11/08訪れて)

ギャラリー

館跡南方面の天然の濠(谷)
天然の空堀とするには、ちょっと広すぎるような気がするが・・・・?泥田堀や水堀ならともかく、これでは、 この中で合戦も可能なほどで防衛施設とはならないのでは?

太田道灌の墓
糟谷館といえば太田道灌暗殺の舞台である。道灌の墓へのお参りは欠かせない。墓は、 それほど大きなものではないが、墓前の両側の切り株は直径1.5~2mほどある太いものだ。
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント