下野 益子古城(益子町)

宇都宮氏の臣で紀党と呼ばれ活躍した紀姓益子氏の平時の居城

別名

御城山城

所在地

栃木県芳賀郡益子町益子大字益子3021(「陶芸メッセ益子」のある丘)
陶芸メッセ益子:電話0285-72-7555

形状

丘城

現状・遺構等

現状:陶芸メッセ益子
遺構等:曲輪、土塁、堀切、空堀、説明板

満足度(10点満点)

3点

訪城日

2009/02/19

歴史等

益子氏は征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)の末裔と云われ、八郎貞頼が常陸信太郡の郡司となって下向し、その末裔・紀正隆が、 平安時代後期の康平年間(1058~65)に、高館山麓に築城(御城山=益子古城)し、初めて益子氏を称して、支配の拠点とし、その後 (正隆以降)高館山頂に西明寺城を築いて移ったと云われてきた。
しかし、平成元年以降のこの地・益子古城跡(御城山遺跡)の調査によると、遺物は全て戦国時代以降のものであり、 少なくとも西明寺城と益子古城は同時に機能しており、 益子古城は益子氏の平時の居城、西明寺城は詰の城であったと考えられる。
伝承では、前述のとおりであるが、確実なところは鎌倉時代前期、源頼朝の奥州征伐のとき、宇都宮朝綱(宇都宮城3代城主) の家臣・正重(紀正隆系の者:紀権守)が活躍し、その戦功により益子を与えられて入部し、益子を名乗り築城したと考えられる。
益子を本拠とする紀姓益子氏は、清原姓芳賀氏とともに、鎌倉~南北朝時代に紀清両党と呼ばれ、宇都宮氏の中核を担っていた。
天正17年(1589)3月、15代家宗は宇都宮氏からの自立を企て、後北条氏と内通し、西明寺城で反旗を翻した。 この時、宇都宮国綱(宇都宮城22代城主) 、芳賀・壬生軍らに総攻撃を加えられ落城し、益子氏は滅亡し、西明寺城とともに廃城となったという。
『「とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

益子といえば陶芸の町である。その『陶芸メッセ・益子』に位置する御城山が益子古城跡である。
登城前は、町の中でもあり、陶芸館や公園となって遺構は壊滅状態だろうと、全く期待していなかった。
ところが、各郭は大きくは改変されておらず、また堀切も残存(一部復元か?)している。
尤も、あまりにも綺麗に整備され往時の風情を味わうことはできないが・・・。ましてや「古城」の雰囲気など全くない。
(2009/02/19登城して)

ギャラリー

縄張略図(現地説明板より)  表紙写真は

本郭
この益子古城跡は御城山遺跡でもあり、本郭跡は遺跡広場と呼んでいる。 1989年から93年まで発掘調査が行なわれ、本郭跡からは中世の掘立柱建物跡が11棟と井戸跡1基、 南郭からは掘立柱建物跡4棟と井戸跡6基や旧石器時代の遺物、東・西郭からは堀立柱建物跡が1棟ずつ発見されたという。

西郭

㊧西郭南側の土塁、㊨西郭西側の土塁
 

本郭と南郭間の堀切
写真左は南郭跡に建つ陶芸館で、益子焼が展示されている。

本郭と北郭間の空堀

㊧模擬東門、㊨門内に展示の益子焼
 

東郭
東郭跡は工房広場となり、陶芸教室を実施している。また、濱田庄司氏の旧宅(写真中央)が移築されている。 濱田氏は、もともとは日用品であった益子焼を芸術品として世界に知らしめた。 昭和5年、益子に登り窯を築いて以来、 この旧宅を創作活動の拠点として、数々の作品がこの世に送り出した。写真右土塁下は南郭と東郭間の空堀跡であるが、ここは道路となっており、 東門(模擬)への入口になっている。

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