常陸 堀之内大台城(潮来市)

牛堀中学校校門手前の城址碑

佐竹氏が常陸大掾氏族を滅ぼした後、常陸南部支配の拠点として築いた城

所在地

茨城県潮来市堀之内(牛堀中学校)
牛堀中学校:潮来市堀之内1009、電話:0299-64-2231

形状

平山城

現状・遺構等

現状:牛堀中学校、田園
遺構等:石碑(説明付)

満足度

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訪城日

2009/01/18

歴史等

天正18年(1590)の小田原の役の後、佐竹義宣は、秀吉に常陸一国の領土を安堵されたが、まだこの時、 常陸国は統一されてなかった。
常陸の諸勢力は反発し、佐竹氏と最後の戦いが始った。同年(1590)5月に、江戸重通を水戸城から追い出し滅亡させた。
さらに府中城を攻め、 大椽清幹を自害させ、大椽氏も滅亡させた。
天正19年(1591)2月、佐竹義宣は常陸統一の仕上げとして、鹿行地方の33の諸氏を、常陸太田城に招き謀殺し、 滅亡させた。
そして、常陸南部の軍事、経済的に重要な支配拠点として文禄3年(1594)頃から豪壮な大台城の築城を始め、慶長元年(1596) に完成し、小貫頼久を城代とした。
城はわずか7年にして、佐竹氏の秋田国替えで廃城となった。
昭和になり、この地に牛堀中学校が建設されることになり、昭和58年から2年間、発掘調査が実施された。
城の構造は、連郭式縄張で一曲輪、二曲輪、三曲輪と出城で形成されていた。廊下橋と城門、三重橋を建てニ重の堀切をし外周土塁には、 ニ重に犬走りと呼ぶテラスが構築されていた。一曲輪には京洛文化の枯山水庭で囲まれた主殿があり、 当時関東では最も新しいスタイルの戦国期と近世を結ぶ城郭であった。
『「現地説明板」、「島崎城址説明板」 、「鹿島城址説明板」 他より』

現況・登城記・感想等

堀之内大台城は、土砂の採掘によって削り取られてしまい、完全に消滅してしまい、今は、その跡に牛堀中学校が建てられ、 校門の右手前に石碑が立っているだけである。すぐ近くにある島崎城址が、 ほぼ完存なのとは対照的だ。
佐竹義宣によって滅ぼされた島崎氏(島崎城主) の家臣の多くは島崎・上戸・潮来・延方などに土着したというから、佐竹氏は400年後に地元民に仇討ちをされてしまったというわけか~!?
(2009/01/18訪れて)

ギャラリー

大台城址から島崎城址を眺める
島崎城は、 南東800mほどのところにあり、城址碑のところからよく見える。

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