常陸 太田城(常陸太田市)

太田小学校校門内に立つ立派な石碑

佐竹氏の400年以上にわたる本拠、関東七名城の一つ

別名

舞鶴城

所在地

茨城県常陸太田市中城町、太田小学校一帯

形状

平山城

現状・遺構等

現状:市街地、太田小学校
遺構等:石碑

満足度

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訪城日

2006/03/04

歴史等

この城の起源は明らかではないが、藤原通延(藤原秀郷の四世)が下野国から太田郷に入り、 太田大夫と称して築城したのが始まりであるという。その後、平安時代末期、太田氏を追った佐竹氏歴代が居城した。
治承4年(1180)源頼朝が平家打倒の旗揚げをしたが、佐竹氏は参陣しなかった。その為、佐竹氏は頼朝によって征伐され、一時、 所領を没収されてしまう。
その後、奥州の藤原氏征伐が行われる際に帰参が許されて御家人となった。旧領の回復は13世紀の中頃、鎌倉幕府が滅ぶ頃、 佐竹氏は足利氏との結び付きを強め一貫して尊氏を支援した。その後室町時代を通じて、一族や重臣たちの反乱で、 幾度となく太田城を追われたりして、衰退の一途を辿ったが、中興の祖・義舜(よしきよ)が、その危機を救った。
そして永禄8年(1565)に家督を継いだ、義舜の孫・義重の代になると勢力を拡大し、 伊達氏や後北条氏などの強大な戦国大名とも互角に渡り合っている。さらに、その子・義宣も父・義重と同様の名将で、 遂には念願の常陸統一を達成した、義宣は水戸城に入り領国経営の本拠とし、 太田城には父・義重が残った。
慶長7年(1602)関が原合戦の戦後処理によって佐竹氏は秋田へ転封されるとともに、 太田城も廃された。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「佐竹義重・近藤龍春著(PHP文庫刊)参照』

現況・登城記・感想等

常陸太田市の市街地から頂上部が平らな丘陵地の壁が見えた。その丘陵上の住宅地にある太田小学校の門を入ってすぐのところに 「舞鶴城址」という石碑があった。
遺構としては何も残っていないが、市街地から見た丘陵は如何にも城の場所として適当な場所であると感じた。
「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」には、関東三山城の一つと記されているが、現状からそれを窺うことは不可能だ。
(2006/03/04訪城して)

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