羽後 久保田城(秋田市)

本丸南西部(お出し書院跡)に建てられた模擬天守(御隅櫓)

関ヶ原戦後、水戸から国替えの佐竹氏が堀と土塁を巡らし築城し本拠に

所在地

秋田県秋田市千秋公園

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 千秋公園(公園面積16万9,200㎡)
【遺構等】 曲輪、土塁、水堀、各門跡、門礎石、御物頭御番所(現存)、復興表門・模擬御隅櫓・移築現存門(秋田市内、鱗勝院)、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

1968/08
2003/03/23
2005/02/14

歴史等

戦国大名佐竹氏は、義重・義宣父子の代に、その領国を拡大、常陸(茨城県)一国を統一したのみならず、下野(栃木県)や南奥州(福島県)をも従える一大勢力に成長した。また、豊臣秀吉の覚えもめでたく、常陸水戸54万5千石の大封を安堵されている。
しかし、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で、佐竹義宣は本国常陸から動かず、傍観の姿勢をとったため、合戦後の慶長7年(1602)、徳川家康によって、米沢へ飛ばされた上杉氏よりも更に遠い出羽秋田に国替えを命じられた。まだ検地すらされず、石高は当初不明であったが、後に20万5千石と常陸時代の半分にも満たない石高を付き付けられる。
佐竹義宣は、当初、湊城 (秋田市)に拠ったが、手狭であったため、雄物川の水運と土崎湊の海運に恵まれた、所領の中央部に位置する標高40mの神明山に築城を計画した。翌慶長8年(1603)年5月に着工、翌慶長9年(1604)8月には完成し、 湊城から移り住み、新城を久保田城と命名した。久保田城には、石垣を一切使わず、沼沢を利用した堀と土塁・土塀をめぐらした。建物はほとんど1層で、わずかに本丸西北櫓に2層の櫓が築かれ、天守代わりとしていた。おそらく、移封による財政難と幕府への気兼ねから目立たない地味な造りとしたものであろう。
佐竹氏は、久保田城にて12代、20万石の居城として明治維新を迎えるが、戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟には加わらず、隣接する鶴岡藩などと戦闘を繰り広げ、関ヶ原から260年を経て、徳川家に一矢報いている。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』

現況・登城記・感想等

千秋公園は大学3年の時の夏(1968/08)に来たことがありますが、その時の記憶はほとんどありません。
今回は、二の丸東側の内堀を左手に見ながら黒門から入って行き、二の丸に出ました。二の丸からは正面上に復興された表門と城内唯一の現存建築物である御物頭御番所が見えます。
左側(南西部)のほうの石段を登り、長坂門跡を通り、坂を登りきると復興表門とその横に御物頭御番所があります。復興表門をくぐると表門の礎石があり、本丸跡へ出ます。
本丸を奥(南西)へ進むと模擬隅櫓へと出ます。
さらに奥の方へ行くと高い土塁があります。久保田城は佐竹氏の城ですから、一番の見どころは美しくて大掛かりな土塁でしょう。想像通り綺麗に築かれた土塁は、いずれも見応えがありました。
(2003/03/23登城して)

今回、別用で雪深い秋田を訪れることになったので、朝早く久保田城を訪れました。今年は特別雪が多くて、当日も本当に寒い日でした。城は雪に埋もれており、あまりの雪深さと寒さのため、二の丸と三の丸の庭だけ見て引き返しました。しかし、凍った池・白い雪・そして雪囲いの景色は、まるで墨絵のようでした。
(2005/02/14登城して)

ギャラリー

縄張略図(現地説明板より)
久保田城縄張図

二の丸東側の内堀
立派な水堀(二の丸東側の内堀)を左手に見ながら黒門の方へ向かいます。
二の丸東側の内堀

黒門跡
黒門跡

二の丸
二の丸からは、正面上に復興された表門と城内唯一の現存建築物である御物頭御番所が見えます。
二の丸

長坂門跡と表門
二の丸南西部の石段を登り、長坂門跡へ出ると復興表門が見えてきます。
長坂門跡と表門

表門
本丸の正門で、一ノ門と呼ばれていました。 絵図などの文献資料により再建されたものです。
表門

御物頭御番所
久保田城内の二の門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、火災の消化等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所で、城内に唯一残っている藩政時代の建物です。
御物頭番所

本丸跡
表門を入ると本丸へ出ます。本丸跡には十二代藩主佐竹義堯の銅像や八幡秋田神社が建っています。
本丸跡

模擬御隅櫓
久保田城には8つの御隅櫓がありましたが、市制100周年を記念して本丸南西部「お出し書院跡」に再建されました。御隅櫓は本丸の北西部に位置していたものです。
本来この位置には二層の櫓が建っていました。本丸の象徴的な建造物であった「お出し書院」を復興するという計画だったのだが、どうせ建てるのなら一般人が見ても分かる城らしいものにしようと考えたのか、或いは二層で復元しても木々に邪魔されて城下から殆ど見えないという理由からか?書院の上に望楼を上げて犬山城に近い形式の天守閣にしてしまったようです。
隅櫓

帯曲輪門跡
帯曲輪門

土門跡
佐竹氏の城は、水戸城もそうですが、美しい土塁に定評がありますネ。
土門跡

中土橋門跡にたつ城址碑と穴門の堀
城址碑

移築現存裏門(秋田市内、鱗勝院に)
鱗勝院は佐竹東家六代義直の夫人・保徳院が創建した佐竹家ゆかりの寺院です。この山門は、安永7年(1778)久保田城大火の際に焼失し、その後再建したもので、二層楼でしたが、鱗勝院への移築にともない現在の形になりました。裏門の原型は失われ、瓦葺きの屋根は後年、銅板葺きになったものの、2百余年前の築材はそのままです。藩政時代から現存する久保田城の建造物は御物頭御番所と、この裏門だけです。
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【冬の久保田城】
今回、別用で雪深い秋田を訪れることになったので、朝早く久保田城を訪れました。今年は特別雪が多くて、当日も本当に寒い日でした。城は雪に埋もれており、あまりの雪深さと寒さのため、二の丸と三の丸の庭だけ見て引き返しました。しかし、凍った池・白い雪・そして雪囲いの景色は、まるで墨絵のようでした。(2005/02/14)
二の丸東側の内堀
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黒門跡
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二の丸
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冬の胡月池
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