女坂を登り始めてしばらくすると出会う大堀切
久留里城の南方防御の支城
所在地
千葉県君津市広岡1524(JR上総松丘駅の東北東500mほどにある山)
(JR上総松丘駅から撮影。中央の山が千本城。)
【行き方】
国道410号線をJR上総松丘駅東側(但し、駅の所から国道へは抜けられない)から200~300mほど北上すると、
左側にガソリンスタンドがある。道路反対側の城址碑脇の道が登城口。
(石碑左側の道を入って行く。)
そこを入って行き舗装が途切れた所の堀切に駐車(2台ほど駐車可能)した。
形状
山城(比高約60m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、堀切、虎口、井戸、石碑
満足度
★★★★☆
訪城日
2009/01/25
歴史等
千本(せんぼん)城に関する記述は少なく、築城時期は不明である。また里見氏の祖義実により築城されたとする説があるが、私は、
義実の時代には、まだ里見氏が上総に勢力を持っていたとは思えないので疑わしいと思っている。
いずれにしろ、戦国時代には久留里城の南方を防御する支城となり、
里見氏の武将東平安芸守が守っていたようだ。
戦国大名里見義弘は子がなかったので、弟の義頼を猶子としたが、永禄12年(1569)に実子梅王丸が生まれた。
義弘は房総を義頼と梅王丸に半分づつ与えると遺言した。天正6年(1578)に義弘が没すると、義頼はそれを守らず、
その名跡を巡って安房を基盤とする義頼派と上総を基盤とする梅王丸派との間に内乱が起こった。戦いは義頼(安房)派の勝利となり、千本城・
久留里城・
造海城・
佐貫城などの上総の緒城は陥落した。
天正18年(1590)の小田原の役の後、里見氏は豊臣秀吉によって上総を召し上げられた為に千本城も廃城となった。
『「房総里見氏(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)」他参照』
現況・登城記・感想等
東京の隣県千葉にもこんなすごい城址が残っていたんだ~!!登城前には、さして期待もしていなかったが、これだけ大規模で、
しかも迫力のある遺構、特に大堀切が残っているとは驚くとともに感激した。
兎に角、堀切・堀切・堀切の連続技である。しかも、そのいずれもかなりの大技である。
中でも、登城口から女坂を入ってすぐに現れる大堀切にはビックリ!ほぼ岩盤の地質を垂直に削り取った深い崖は高さ20m近く、
幅も20mほどあるであろう。
城址は、登城口から北野神社が鎮座する主郭辺りまでしか整備されていないが、その奥にも相当な広さの城郭があるようで、
とても支城とは思えない大城郭である。
今回、神社裏かなり奥まで行き、さらに急崖を下りていったが、森林があまりにも深く、道も定かでなかったので、
残念ながら途中で引き返してきてしまった。
いつか人を募って、男4~5人で、じっくり時間を掛けて廻りたいものだ。
(2009/01/25登城して)
ギャラリー
【登城】
登城口には北野神社への案内板が立っている。それに従い、左の坂を登って行く。右へ行く道は、
ここからは砂利道になっているが、多分山麓の畑へ行く為の道だろう?
男坂・女坂分岐点
坂を少し登ると、道が左右に分かれる。左が男坂、右が女坂。今では、男坂が一般道になり整備されているが、
往時は女坂が登城道だったようである。今回は、上りは男坂、下りを女坂でと思い、左へ入って行った。
男坂
多分、男坂は北野神社参詣のために後世造られたもので、よく整備されている。最初、
コンクリートで舗装された道を50mほど登って来ると左写真のような石段の道へ出る。その石段を登り切ると右へ曲がり、
右写真の急な階段の道が現れる。
分岐点
急な階段を登り切ると、3箇所への分岐道へ出る。左は主郭西下の腰曲輪への虎口。真っ直ぐ行くと主郭方面。
右は堀切の底へ降りる道になっており、ここが女坂との接点らしい。下城は、この堀切へ降りて女坂を通って行こう。
主郭西下の腰曲輪への虎口
まずは、主郭西下の腰曲輪へと入って行った。
主郭西下の腰曲輪
虎口から入って行くと、右(東)側に一部が岩盤がほぼ垂直に切り立った高さ20m近い崖になっている。
崖の上が主郭である。この腰曲輪は、今はかなり荒れ果てているが、少し前までは整備されていたのか、「君津市・・・・・」
と書かれた看板や空き缶が一杯捨てられていた。この道徳心の無さには呆れるばかりだ!
腰曲輪北の堀切
腰曲輪の北には、主郭部と西尾根間に深さ7~8mほどの堀切が切られている。
堀切の向こうは崖が山裾まで落ち、遠く山並みが見えた。
主郭
主郭は不整形で、北野神社が鎮座している。説明板によると、「創立年度は不詳、古老の口碑によれば、
長享2年(1488)里見義実の創建」となっているが、当時はまだ里見氏が上総に勢力を持っていたとは思えないので疑わしい。
北野神社裏の土塁
北野神社裏は、少し高くなり、土塁が神社を取り囲むようになっているが、
これは神社を創建するにあたって削ったものであろう。
神社裏へ
㊧主郭裏は、2曲輪・3曲輪だったのであろうが、ほとんど整備されておらず、笹薮になっていたが、
かろうじて道らしきものがあったので、どんどん奥へ進んで行った。最北部は急崖になっていたが、右側に降りれそうな崖道があったので、
滑りながらも何とか降りて行った。
主郭東側の崖
主郭東側も一部岩盤の急崖になっており、狭い帯曲輪跡のような削平地があった。
主郭部北東の広い曲輪
主郭下北東部には広い曲輪跡がある。ここを降りて行くべきか迷った!
主郭北東部は杉の森
広い曲輪の奥を眺めると深い森になっている。この先に、まだまだ遺構がいっぱいあるらしいが、
道らしきものが全く見当たらず、入って行くのを断念!いつか人を募って、男4~5人でリベンジしたいものだ。
【下城】
主郭南の堀切
男坂を登り切った分岐道まで戻り、主郭南の堀切へ下りて女坂を下りて行った。この堀切も、
普通の城郭なら大堀切と云えるであろう。上部幅20mほどあり、深さも主郭反対側はゆうに10mを超えている。
堀底道
堀切を下りて、主郭反対側の山裾の道を進んで行くと、また堀切へ出る。
ここは往時から堀底道になっていたようだ。この堀底道を抜け山の東側へ出る。
堀切
この写真は堀底道を通り抜け、振り返って撮ったものである。この堀切も片側の高さは、
ゆうに10m以上はある。
またまた堀切が
さらに女坂を下りて行くと、また右(西)側上に堀切が見えてくる。この堀切は深さ4~5mほどである。
井戸
さらに女坂を下りて行くと、右側に岩盤をくり抜いた手水鉢のちょっと大きめくらいの小さな井戸がある。
この井戸は湧き出ているものでなく雨水を溜めるためのものだろう。ここから、さらに下りて行ったが、途中、道が崩れ、
また倒木で進めないので男坂に戻って下城した。
【女坂から再登城】
女坂
登城口まで戻り、今度は女坂から再登城した。女坂は、いきなり往時の雰囲気を醸し出す堀底道となる。
登城には、こちらが絶対お薦めだ!
急崖が見えてくる
堀底道を少し登ると、正面に急崖が見えてくる。
大堀切① ~クリックにて拡大画面に~
上写真の急崖手前を左へ曲がると、この大堀切が見える。この堀切が目の前に見えた時の感激は、
言葉で表わせないほど凄かった!深さも幅も20mを超えるのではないだろうか?今まで見た山城の中でも最高級だ!
大堀切② ~クリックにて拡大画面に~
上写真から、さらに少しのぼってみると益々感激!!それにしても凄い!!
ここから右へ道があり、少し登って行ったが、時計を見ると3時だった。時間を全く忘れ、昼食をとるのも忘れていた。
ほぼ女坂も見たようなので引き返した。次回、登城する時は、絶対女坂から登ろう!!