あやめ園に浮かぶ築山と萩の垣根
享徳の乱で鎌倉を追われた古河公方足利成氏が築かせた城
所在地
南埼玉郡菖蒲町新堀1695、あやめ園
形状
平城
現状・遺構等
現状:あやめ園
遺構等:石碑、説明碑、栢間陣屋の移築門
訪城日
2009/08/28
満足度(10点満点)
1点
歴史等
享徳3年(1454)に勃発した関東公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の対立した享徳の乱(古河公方館参照)で、
鎌倉を追われた成氏は、翌康正元年(1455)古河に逃れて、古河公方を称した。
成氏は、康生2年(1456)、家臣の金田式部則綱に命じて菖蒲城を築城させ、隣接の騎西城等とともに、
上杉勢に対する防衛網として整備した。
城の竣工が5月5日の菖蒲の節句に当たった為に命名されたといわれる。
以後、金田氏は氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属した。
天正2年(1574)の第三次関宿合戦では、
簗田持助を助けて利根川で北条氏政と対陣した上杉謙信が、騎西城・
菖蒲城などの城下を焼き討ちしている。
天正18年(1590)の小田原の役後、廃城となり、以降は徳川譜代の内藤氏が栢間に陣屋(栢間陣屋)を構えて5,700石を知行した。
現況・登城記・感想等
菖蒲町には、菖蒲城跡の「あやめ園」とは別に「あやめ公園」といのがあるのでお間違いなきように。かくいう私は、地元の方に
「あやめ公園」の場所を尋ね、星川沿いにある「あやめ公園」の方を教えられたのだ(苦笑)。是非、「菖蒲城趾あやめ園」と尋ねて下さい。
さて、菖蒲城址であるが、遺構は全くありません。もともと荒川と利根川に挟まれた低湿地帯の微高地に築かれた城であったようだが、
農地造成で沼も微高地もすっかり平らにされ、跡形も無くなってしまい、今では田んぼの真ん中に城址碑
(城址名の碑と説明が刻まれている碑の2つがある)と、県道12号線沿いに栢間陣屋の移築門がぽつんと建っているだけである。
ただ、城名(町名も)の由来とされる菖蒲(しょうぶ、あやめ)が植えられ、城壁に見立てた「萩の垣根」や散策路が築かれていて、「あやめ園」
としてきれいに整備されている。菖蒲の花が咲く頃に登城したらさぞかし見事なことだろう。
(2009/08/28訪れて)
ギャラリー
あやめ園に造られた散策路と石碑が建てられている築山
石碑
石碑は、城址名の築かれた3mほどある高い碑(左)と城の説明が刻まれた碑(右)の2基がたっている。
強烈な西陽で説明文はほとんど読めなかった。
栢間陣屋移築門
明治以降、栢間陣屋は廃止解体されたが、この門は当時名主であった三須家に移築された。平成10年に、
三須氏より町に寄贈され、この地に移築された。(現地説明板より)