武蔵 騎西城(騎西町)

城跡近くに建てられた模擬天守(郷土資料展示館)

上杉・長尾氏と古河公方攻防の城、江戸初期は松井松平家初代・康重が城主に

別名

私市城(きさいじょう)、根古屋城、山根城

所在地

北埼玉郡騎西町根古屋

形状

平城

現状・遺構等

現状:市街地(騎西町図書館・老人福祉センター・宅地等)
遺構等:土塁、模擬天守(郷土資料展示室)、模擬水堀、石碑(土塁上に)、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2009/08/28

歴史等

私見ではあるが、騎西(きさい)というからには武蔵七党の一つ私市(きさい)党の館が始まりだったのではと思うが、 騎西城の築城時期や築城者は史料がなく定かではない。
康正元年(1455)、上杉・長尾・庁鼻和氏などが守る騎西城を、古河公方足利成氏が攻略したのが史料上の初見である。
戦国時代は越後・武蔵の抗争に巻き込まれ、城主小田氏は親戚筋の成田氏と同様、後北条氏方についたが、永禄6年(1563)、 武蔵松山城救援に間に合わなかった上杉輝虎 (後の謙信)が憂さ晴らしで、小田助三郎が守る騎西城を攻め落したという話は有名だ。
小田原の役の後の天正18年(1590)、徳川家康の関東入部に伴い、三河以来の譜代の臣・松平(松井)康重が2万石で城主となった。
その後、康重は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のとき、家康の命で遠江掛川城を守り、 戦後は美濃大垣城に在城したのち、 1万石を加増され、翌年常陸笠間城へ転封となった。
代って、小田原藩主・ 大久保忠隣の嫡男・忠常が2万石で入封したが、慶長16年(1611)病没し、その子・忠職が8歳で城主となった。
慶長19年(1614)、祖父・忠隣が本多正信・正純父子の計略で、小田原藩6万5千石を改易され、 忠職は騎西で蟄居していたが、寛永2年(1625)に赦免となった。
忠職は、寛永9年(1632)、3万石を加増されて5万石で美濃加納城へ転封となり、 騎西藩は廃藩となり城も廃城となった。
『「現地説明板」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

騎西城址は宅地化が進み、遺構としては僅かに土塁の一部が残るだけである。土塁は高さも幅もかなりあり立派なものだ。 保護のためか下部分が石垣で補強されている。
昭和54年からの発掘調査で、戦国~江戸初期の堀跡や武器などが出土したそうで、それによると城の周囲は二重の障子堀がめぐり、 堀幅の最大は45mもあったそうだ。発掘調査後は、多分埋め戻してしまったようだ。土塁もさることながら、 その貴重な障子堀を見学できるように保存して欲しかったものだ。
尚、本当の城跡の近くに、三層の模擬天守風の郷土資料館が建てられ、町のランドマークになっている。ただ、この資料館、藤祭り (4月下旬~5月上旬)と文化祭(11月上旬)の期間だけしか開放していないようである。
(2009/08/28登城して)

ギャラリー

江戸初期の騎西の絵図(現地土塁跡説明板より)  ~クリックにて拡大画面に~
この江戸初期の絵図は、大久保氏が在城した慶長7年(1062)から寛永9年(1632)頃の城下を描いたものである。 大久保氏は小田原で明治維新を迎え、この略絵図も小田原に伝えられ、小田原市立図書館に所蔵されたものである。それによると、 城は沼や深田に囲まれていた。戦国時代、騎西城を攻略した上杉謙信は騎西城の様子を「騎西城は四方の沼が浅深限りなく、一段と然るべき地で、 調儀叶い難し・・・」と書状に記している。江戸初期の大久保氏時代の城下には、堀が縦横にめぐり、入口や要所には門や寺社が配され、 容易には侵入できない様子が窺える。(現地説明板より)

江戸初期の騎西城(現地歴史資料館下説明板より)  ~クリックにて拡大画面に~
江戸時代の騎西城は、東に大手門を配し、二つの曲輪・天神曲輪・馬屋曲輪・二の丸と鉤の手状に構成され、本城(本丸) へ容易に攻め込まれないような構造となっている。さらに押し寄せる軍勢や弓矢・弾丸に対し、 防波堤となるべく土塁が大手から本城までの全周を、延々と巡っていたことがわかる。寛永9年(1632)に廃城となった後の衰亡は著しく、 寛保年間(1741~44)には本丸・二の丸の土塁が崩され、安政年間(1854~60)に至ると城跡の竹林が開墾され、 江戸末期にはほとんど畑となった。明治・大正期には、図のようにT字形(灰色)に残るのみとなり、 県道が城跡を貫通した後の土塁はいっそう小さくなり、昭和40年頃の写真にわずかにその名残りをとどめている。(現地土塁跡説明板より)
●は、説明板或いは標柱がたつ場所。 は現存土塁の場所。

今見ることの出来る唯一の遺構「土塁」
騎西城址は、遺構としては僅かに土塁の一部が残るだけである。土塁は高さも幅もかなりあり立派なものだ。 保護のためか下部分が石垣で補強されている。
発掘調査によると、土塁の高さは3メートル以上、下幅は10メートル以上あったと思われる。断面を観察すると、 崩れにくいように灰色土と黄色土を交互に叩き固めている。また、積み方が一様でないことから、土塁築造後、拡張し修復されたものと思われる。 騎西城は、越後の上杉謙信、小田原の北条氏にとって関東支配の前線基地として重要であった。そのため、幾度か攻められ、 それを凌ぐため堀はより広く、土塁はより高く築かれた。南に幅50mの障子堀をもつこの土塁は、 攻める者に圧倒的な威圧感を持って対峙したであろう。
現在、土塁はここに残るのみで、当時の姿を伝える西側の高い部分が旧来の土塁(高さ3m)、こちらの低い部分が在りし日の騎西城を偲ぶため、 平成10年に復元延長したものである。(現地説明板より)

土塁を内側から
土塁の上には石碑(土塁上奥)、その向こうには道路を隔てて模擬天守風の郷土資料館が見える。

模擬天守(郷土資料室)と模擬水堀

出土品の兜(現地説明板写真から)
昭和54年からの発掘調査で、戦国~江戸初期の堀跡や武器などが出土した。出土品は多様で、国内外の陶磁器、 矢じり、鎧道具等々がある。

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