僅かに残る四郭の石垣
真田幸隆の弟(昌幸の叔父)矢沢綱頼の居城
所在地
長野県上田市殿城矢沢
形状
平山城(標高650m、比高50m)
現状・遺構等
現状;公園(しかし、ほとんどほっぽらかし状態)
遺構等:曲輪跡、石垣、堀切、碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/09/17
歴史等
真田幸隆の弟・矢沢綱頼(頼幸とも)の居城。綱頼は、諏訪神氏ゆかりの矢沢家を継ぎ、幸隆の子・昌幸が上田を領した後は、
その重臣として活躍した。
昌幸の子・幸村(信繁)が越後春日山城の上杉景勝に仕えた時は綱頼の子・
三十郎頼定が供をしている。
天正13年(1585)の神川合戦(第一次上田城合戦)
の折は、三十郎頼定が、この城を守り、800の守兵で依田源七郎ら1500の軍勢を退けたという。
のちに、矢沢氏は真田信之に従って松代に移り、
矢沢の地は仙石政勝の領地となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
矢沢城址は矢沢城公園とはなっているものの、
10年以上も手が付けられていないような古びた鉄棒やまずは使われていないであろう東屋があるくらいで、草木も伸び放題であった。
駐車場から少し坂道を登ると曲輪跡があり、最高部にある主郭へ腰曲輪が何段にもなっていた。また、帯曲輪らしき跡や、
石垣が何箇所か残っていた。
規模はそれほど大きくなく、駐車場から主郭へは5~10分程度で登れる。
(2006/09/17登城して)
ギャラリー
虚空蔵山(駐車場から坂道を登り始めるとすぐ見える)
第二次上田城合戦の時に、真田昌幸は虚空蔵山(戸石城の南方)や丸子城などの支城にも兵力を配置して遊撃軍とし、徳川勢を翻弄したという。
また、武田信玄が戸石城攻めで戸石崩れにあった時にも、この虚空蔵山に陣をしいたそうである。
帯曲輪
腰曲輪
最高部にある主郭へ腰曲輪が何段にもなっている。また僅かではあるが、何ヶ所かに石垣も残っている。
右奥にも石垣が見える。
腰曲輪(左)と四郭跡(右)
四郭から下の腰曲輪を見ると何段にもなっているのが分かる。四郭跡には古びた鉄棒があったが、
もう10年以上は使われていないであろう。
僅かに残る四郭の石垣
三郭への石組虎口
二郭にある神社
この神社も、全く放りっ放しになっていた。
神社裏の主郭の石垣
主郭
あまり広くはなく、2段になっている。
主郭裏の堀切?
相当な深さがあるのはよく分かったが、草茫々で入っては行けなかった。