信濃 飯田城(飯田市)

桜丸御門(通称赤門)

信長・秀吉・家康が重視した伊那の中心地

別名

三本杉長姫城、六本杉長姫城

所在地

長野県飯田市追手町
本丸は長姫神社一帯、二の丸は美術博物館一帯、三の丸は県合同庁舎、追手町小学校、市立中央図書館一帯
美術博物館に無料駐車場(第1~第3駐車場)がある。
飯田市立美術博物館:飯田市追手町2-655-7、電話:0265-22-8118

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 市街地(長姫神社、美術博物館、図書館など)
【遺構等】 曲輪、土塁、堀、石垣、移築城門(市立図書館脇、経蔵寺、龍門寺南の邸宅「木下家」)、説明板
  市立図書館:飯田市追手町2-677-3、電話0265-22-0706
     経蔵寺:飯田市上郷別府1768、電話0265-22-6850
     龍門寺:飯田市松尾上溝2675、電話0265-24-2564

満足度

★★☆☆☆

訪城日

1987/04/05
2013/10/27

歴史等

飯田城は、建保年間(13世紀前半)にこの地の地頭に任じられた坂西長由によって築かれた云われる。
戦国時代には、天文23年(1554)に武田信玄の伊奈侵攻時に落城し、武田氏の城番が入る。永禄5年(1562)に伊那郡代となった秋山信友が、堅固な城へと改修する。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、織田方の毛利秀頼が入城。その後、徳川領になると菅沼定利を郡代として入れた。天正18年(1590)、毛利秀頼が再封、没後、京極高知が入り、近世城郭へと改修する。
関ヶ原の戦後、小笠原秀政・脇坂安元・安政と続き、脇坂氏が播磨龍野へ移封されると、寛文12年(1672)堀親昌が下野烏山より入封し、堀氏が代々この地を領し明治を迎えた。
『日本城郭辞典(新人物往来社刊)参照』

現況・登城記・感想等

飯田は江戸時代には飯田藩の城下町として栄え、下伊那地方唯一の近世城郭「飯田城」が築かれていた。
飯田城は、南の松川と北の谷川に夾まれた急峻な段丘上に、南東から北西へと連郭式に4つの曲輪(山伏丸・本丸・二の丸・三の丸)が配置された城郭で、段丘の先端部に建つ「飯田城温泉・天空の城三宜亭本館」辺りが山伏丸、長姫神社・柳田國男館・日夏館の用地が本丸、美術博物館周辺が二の丸、県合同庁舎、追手町小学校、市立中央図書館が建つ辺りが三の丸である。
飯田市は現在も伊那地方最大の人口を擁する中心的な街でもあり、それらの遺構の大半が市街地に埋もれてしまっているが、本丸跡に建つ長姫社殿の裏手には石積み土塁、柳田國男館(本丸)と美術館(二の丸)の間には立派な堀切、美術館には井戸や整備された二の丸水路等々、僅かではあるが、各地に点々と遺構を見ることができる。
また、市立中央図書館の西側には「桜丸御門(通称赤門)」、経蔵寺の山門として脇坂時代の「桜丸の門」、龍門寺の南側にある邸宅(木下家)には二の丸御門(八間門)が移築されている。
(2013/10/28訪れて)

ギャラリー

山伏丸跡に建つ「飯田城温泉・天空の城三宜亭」と山伏丸跡から見下ろす飯田市街
段丘の先端部(本丸の東側)には武具庫3棟と番所が建つ郭があり、その昔、山伏の修行所であった由縁から山伏丸と呼ばれた。その山伏丸跡には「飯田城温泉・天空の城三宜亭本館」が建つ。その脇から飯田市街を見下ろすと、ここが急峻な要害の地にあるのがよく分かる。
山伏丸跡の飯田城温泉天空の城 山伏丸からの眺望

本丸跡に鎮座する長姫神社
本丸跡は、長姫神社・柳田國男館・日夏館の用地になっている。往時、本丸は、東西・南北の100mを土塀に囲まれ、藩主が住まい、政務をとった本丸御殿・奥御殿などいくつかの建物が建ち、南と東端には櫓があった。段丘崖には杉の巨木が生い茂り昼間でも薄暗く、また建物が大き過ぎる上、城下町から離れすぎていることで、堀氏中期以降は、公行事以外は桜丸(現在、赤門が建つ一帯)が使われたという。
IMG_4055

長姫神社社殿裏の石積み土塁
長姫神社社殿裏には石積み石垣が残っている。
IMG_4061

柳田國男館(本丸)と美術博物館(二の丸)の間の堀切
本丸と二の丸の間は、段丘の両側から掘られた堀切で断ち切られ、中央に土橋が設けられていたという。現在では、その堀切の多くは埋められてしまっているが、南側部分が残り、本丸(柳田國男館)と二の丸(美術館)の間には近代的な橋が架かっている。一部、石垣で固められた、深さ10m、幅15mほどもある巨大な堀切は飯田城跡最大の見どころではないでしょうか。
IMG_4049

二の丸大通り跡と水路(御用水)跡
二の丸跡には美術博物館が建ち、その前に二の丸大通りと水路(御用水)が再現されている。
二の丸を貫く大通りの両側には白壁の土塀が続き、各所に藩重臣の屋敷の門があったという。道路の幅は約5mで、北側には水路(御用水)が造られていた。
水路(御用水)は、発掘調査で発見されたのを再現したもので、風越山(1535m)の山麓で、松川から摂った水は、城下町をうるおし、城突端の山伏丸の池まで引かれていたという。

IMG_4028

水路跡と石組み竪穴跡と井戸跡
美術博物館の北西部には、水路跡と、その脇に石組み竪穴が再現され、その西側には井戸が残っている。井戸のすぐ西側(写真右)は二の丸御門跡である。水路は、発掘調査で、御用水の他にも、二の丸を区画するいくつかの水路跡が発見されたそうで、この水路は、その一つである。
IMG_4037

石組み竪穴
側壁に河原石を積み、底に小石を敷いた正方形の竪穴で、片側だけに中段を持っている。江戸時代、屋敷の庭にあって、洗い場として使用されていたと思われる。
IMG_4036

井戸跡
二の丸御門跡脇にコンクリートで囲まれた井戸跡が残っている。井戸は河原石で組まれているが、埋まってしまっている。
IMG_4038

桜丸と二の丸の間の堀切と桜丸石垣?
桜丸(三の丸の東部分)と二の丸との間の堀切は、現在、車道となっているが、その地形はそれとなく分かる。また、桜丸側には石垣が見られるが、果たして往時の遺構なのかどうかは??
IMG_4064

桜丸御門(通称赤門)
市立中央図書館の西側には「桜丸御門(通称赤門)」が建っている。飯田城桜丸の門で、宝暦4年(1754)4月に上棟された。門の脇には井戸跡が残っている。
IMG_4083

脇坂時代の「桜丸の門」
経蔵寺の山門として脇坂時代の「桜丸の門」が移築現存している。宝暦4年(1754)に赤門(上写真)が建てられるにあたり、家老安富氏の屋敷に移築されたが、その後、二転三転し、経蔵寺の山門となった。
IMG_4068

二の丸御門(八間門)が移築された木下家
龍門寺の南側にある邸宅(木下家)には二の丸御門(八間門)が移築されている。龍門寺から南へ下りて行くと立派な塀に囲まれた邸宅があるが、門は南側にあるので分かり辛い。西側から畦道のような道を下りて南側へ廻ることになる。門の前には水堀が設けられ、まるで城郭のような立派な邸宅です。
IMG_4073

二の丸御門(八間門)
明治4年(1871)に木下家が払下げを受け移築した門で、元は二の丸入口にあった。二階建ての三間一戸の櫓門で、左右に四間ずつの長屋があるので八間門と呼ばれている。
IMG_4074

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント