加賀 鳥越城(白山市、旧鳥越村)

中の丸から本丸(城門等)を望む

信長に抵抗した加賀一向一揆最後の砦

読み方

とりごえじょう

別名

別宮城

所在地

石川県白山市(鳥越村)三坂町
【アクセス】
小松市街から国道360号線を10kmほど東進し、三坂トンネルを越える。鳥越村(現:白山市三坂町)に入ると標識があるので、すぐに判ると思います。トンネルを過ぎて600m先で左折し大日川(三坂大橋)を渡って右手の山上が城址。城址への登城口に説明板等が設置され、二の丸のすぐ下まで車で登れる。

形状

山城(標高312m、比高130m)

現状・遺構等

【現状】 城址公園(国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、模擬櫓門、模擬門、模擬柵列、石垣、土塁、切岸、堀切、空堀、井戸跡、便所跡、石碑、遺構案内板、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2013/05/17

歴史等

鳥越城は、天正初年頃(1570年代)、織田信長による加賀一向一揆討滅の経路がはかられるなかで、本願寺から派遣された鈴木出羽守(雑賀の鈴木孫一の一族らしい)を城主とし、門徒集団である山内衆(白山麓の真宗本願寺教団の信徒たち)の抵抗の拠点として築城された。
天正8年(1578年)3月、本願寺顕如は信長に屈し、さらには同年4月には加賀一向一揆の中核・金沢御坊が信長の部将柴田勝家に落とされるにおよび、鳥越城は一向衆の最後の拠点となり頑強な抵抗を続けたが、11月には柴田軍に攻められ落城した。
加賀を平定した勝家は、金沢御坊を尾山城と改め、佐久間盛政に委ねたほか、各所に部将を配し、鳥越城には、吉原次郎兵衛を置いて白山麓の支配にあたらせたが、白山麓門徒の抵抗は続き、当城をめぐり攻防戦が展開された。
しかし、天正10年(1582)3月1日をもって、白山麓の一揆は、尾山城主・佐久間盛政によって鎮圧された。この結果、300人にもおよぶ門徒たちが磔に処せられ、白山麓の村々は廃村同様となったという。
『「現地説明板」、「日本城郭大系11」参照』

現況・登城記・感想等

鳥越城跡が見応えのある城跡と聞いてはいたが、「所詮は一揆の城」と高をくくっていたが、とんでもない大間違いでしたw(*゚o゚*)w。
規模も大きく、まるで垂直に切り立つような切岸や深くて迫力のある堀切・空堀等々の遺構が良好に残る上、丁寧な復元整備がされ見応え満点です。
中でも、本丸と後二の丸間の堀切、本丸南側の堀切は迫力満点です。
他にも、本丸虎口の復元された石垣・枡形・城門、そして建物跡が平面表示された本丸、周囲の土塁や櫓台などが良好に残る二の丸等々、見どころ満載です。
兎に角、「素晴らしい」の一言です。
(2013/05/17登城して)

ギャラリー

鳥越城縄張略図(現地説明板より)
鳥越城の縄張りは、頂上部の本丸を中心に南北に曲輪が配置され、南に二の丸・三の丸、北に後二の丸・後三の丸がある。また、東西下には腰曲輪が配置されている。
00鳥越城縄張略図

鳥越城跡全景
当写真は、鳥越城の西側を流れる大日川に架かる三坂大橋から撮ったものです。山頂に復元された柵列などが見えます。
01鳥越城全景

登城口
鳥越城跡へは、後二の丸のすぐ下まで車で登って行けるが、その登城口には、「国指定史跡・鳥越城跡登口」と刻まれた石碑と「説明板」が設置されている。
03説明板

出丸
登城口から、車で少し登ると、右手に石碑と馬場や出丸も含めた鳥越城全体の案内板(縄張図)がある。この辺りが出丸跡のようです。ここから写真右の人工的に削られた垂直に近い崖(ここまで高低差があると切岸といえるのかどうか?)は凄く、この時点で期待が高まります。
05出丸

後二の丸下
道なりに登って来ると、後二の丸下へ出る。写真正面の土塁上が後二の丸です。
11後二の丸切岸

本丸切岸
車を停めて左の方へ向かうと、本丸東側の切岸が・・・。その高くて切り立った切岸は、垂直とは言わないまでも、強烈な急傾斜でとても登れそうにはない。左奥上は中の丸と二の丸。
13本丸切岸

後三の丸を見上げる
右の方へ戻ると、右手上に後三の丸の切岸が見え、その手前には土塁と空堀が。写真左手前に見える登城道を本丸へと登って行きます。
14後三の丸

後三の丸外側の空堀
後三の丸下は、土塁の外側にも空堀がめぐっている。右側の道は、車で登って来た道です。
19後三の丸空堀

後二の丸北側の空堀
後二の丸と後三の丸の間の道を登って行くと、左手に後二の丸下をめぐる空堀と土塁が・・・。空堀は、さほど深くはないが、後二の丸の切り立った切岸は、とても攻め上っていくことは不可能です。
13後二の丸空堀

アヤメガ池
一方、右手後三の丸川には「アヤメガ池」と呼ばれる空堀が確認できるが、往時は水が湛えられていたらしい。
案内板によると、「後三の丸の北方を巡る空堀は、東向きの谷地で一段深く掘り下げられていた。掘には、水を通す砂の地層と埋め立てられた谷地からの湧き水が常に流れ込んでくる。水の得難い山城にあっては、深い堀に溜められた水は城内を支えたであろう。」とある。
17アヤメガ池

後二の丸外側の空堀に配置されている土橋
後二の丸北側の空堀には土橋が・・・。土橋の横(写真土橋右側)の堀には水を溜めていたようです。
21土橋1

本丸へ
後二の丸を時計回りと反対に登って行くと、前方に石垣、城門、柵が見えてくる。
23本丸へと

復元された枡形門と石垣
本丸跡へは、南西部に復元された高麗門から入る。門の両側には石垣が築かれているが、織田方により改修されたものであろう。
案内板には「本丸を守る枡形門は、城内で唯一石垣で三方を固める。石垣は水平軸を通した布目積みで、形と大きさを揃えた石材の中に大振りの鏡石を置いて魔除けとし、角部には算木積み技法を取り入れる。斜面地形を生かして石垣の高さを変え、東方の空堀を区切る枡形は、礎石建ちの高麗門を南方に開ける。」とある。
25枡形門

本丸門と枡形
枡形門から入ると、枡形空間になり、左前方に本丸門(写真右)が現れます。この本丸虎口の枡形も織田方によって改修されたものでしょう。本丸門は、櫓門形式になっています。
27本丸門と枡形

本丸枡形虎口
当写真は、本丸脇の望楼台上から撮ったものですが、見事な枡形です。枡形門とその両脇の石垣、枡形を囲む土塁の姿が絵になりますね。
29枡形と枡形門

本丸門と望楼台
本丸門東側脇には、望楼台跡が残っている。望楼台上からは東方面が全て見渡せる。当写真は、本丸内から撮ったものです。 
30本丸門と櫓台

望楼台上から本丸を
本丸内には幾つかの建物跡が平面表示されており、井戸跡(写真右奥)や便所跡も。本丸も、織田方により改修されているようだ。
案内板には「本丸跡は標高312mで、城山の頂上部にあたる。区画は南北に延びる長方形で、西側縁を除いて三方に土塁を築く。内部の建物群は6時期の建て替えを示す礎石と柱穴が数多く配置され、南西側では火災による焼土層が広がっていた。出土品には石臼・茶臼、鉄釘、銅銭、越前焼の甕・擂鉢、漆塗碗などがあり、碗・皿・盃などで中国製磁器が目立つ。武器類には鉄砲玉、小刀、鎧断片があり、食料の米・粟は炭化した状態で多量に出土した。また、井戸跡北側から金板片を発見した。」とあった。

32本丸

本丸北側から本丸を
34本丸

本丸から後二の丸を見下ろす
本丸北側下には、鋭角に掘られた深い堀切を隔てて後二の丸があるが、ここから見下ろす光景は、背後の景色(山麓と山並み)と相俟って迫力満点です。尚、後二の丸には2軒の建物の平面表示がなされている。
41後二の丸

本丸(右)と後二の丸(左)間の堀切
この堀切は、ただ深いだけでなく、両側が鋭く切り立ち、堀底は実に狭い。兎に角、すごくて感動ものです。
43後二の丸堀切

後二の丸から本丸を見上げる
二の丸から見上げる本丸は、高さ5mほどですが、垂直に近いほど切り立った切岸は、とてもよじ登れるようなものではない。本当にスゴイですw(*゚o゚*)w。
後二の丸から本丸を見上げる

本丸南東側の堀切(竪堀)
本丸南東側の、この深い堀切は、自然の地形に手を加えたものでしょうが、竪堀(首切り谷)となって山裾へ落ちていっている。これまた、迫力満点です。当写真は、本丸門脇の望楼台上から撮ったものです。
52堀切

中の丸
当写真は本丸脇の望楼台上から中の丸方面を撮ったものです。手前の窪みは、上写真の堀切(竪堀)、写真奥は中の丸門です。
54中の丸を

中の丸門
門の向こうは、相当急な坂道になっている。案内板には「尾根筋の本丸へ登るために腰部の南端から取り付く坂道があり、大振りの岩を組んだ石垣で固めている。坂上にある中の丸門は見通しがきかないように土塁などで遮り、礎石建ちの門は南方に向いて開き、大日川を越えて二曲城跡を眼下に臨む」とあるが、搦手なのでしょうね。
56中の丸門

二の丸
中の丸の奥は二の丸です。二の丸は、約20m四方の狭い曲輪ですが、周囲を低い土塁が囲み、建物や隅櫓(2基)の平面表示がされている。
案内板には「二の丸跡は腰郭から登る路と中の丸門に隣接する郭で、南側は堀切を配して三の丸を見下ろす。郭には全周する土塁が築かれ、南東側が特に高い。南西隅の礎石建物跡は、谷に臨んで二曲城を正面にした隅櫓で、東縁の礎石建物跡は東腰郭側に備えた櫓である。内側には建て替えを表す堀立柱建物の柱穴多数と食料貯蔵用の石室状土坑1基が発見されたが、礎石が抜き取られていた。土坑内からは炭・焼土に混じって、陶磁器類と刀、鉄砲玉、鏡、漆器碗・皿、賽子が出土した。」とある。

61二の丸

二の丸建物跡の平面表示
63二の丸建物跡

二の丸隅櫓跡の平面表示
隅櫓跡は、二の丸の南と東側の2つある。
65二の丸隅櫓跡

二の丸と三の丸を繋ぐ土橋
二の丸からさらに南でと進むと、堀切があり、土橋が設けられている。
71二の丸と三の丸間の土橋

二の丸と三の丸間の堀切
上写真の右側部分の堀切ですが、勿論、竪堀(自害谷)となって山裾へ落ちていってます。勿論、左側の堀切も竪堀となって山裾へ落ちて行ってます。
二の丸と三の丸間の堀切

三の丸
三の丸は、全く整備がされず薮です。二の丸より、かなり広いです。
75三の丸

三の丸の先の堀切と土橋
三の丸の南端部も堀切で断ち切られ、土橋が設けられている。この先も、まだ城域のようでしたが、ここで引き返しました。
77三の丸先の土橋

後三の丸
鳥越城の最も北にある曲輪で、面積が最も広いようです。
以下、案内板より。「鳥越城跡の北端を占める本郭は城跡の中で面積が最も広く、屈折する空堀によって本丸側から離されて独立的性格をもちます。西方の裾部には幅の広い腰曲輪が造成され、北東方から東方には空堀が掘られ、水場のあやめが池に落ち込みます。郭へは腰曲輪の南西隅から入り、階段状の区画を登ります。南西端の狭い区画には堀立柱建物跡や排水溝、玉石敷きの施設が発見されています。城内の中枢部から空堀で隔てられた本郭は、前線基地的な役割を果たすものと思われます。」

81後三の丸

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コメント

下田 浩之(2014/01/03)

鳥越城跡は一回行ったことがあるがあそこまで城域があるとは知らなかった

タクジロー(2014/01/05)

下田浩之さま
当サイトへのご訪問をありがとうございました。
また、時々、当サイトへお寄り下さい。
今後とも、宜しくお願い致します。

あきのすけ(2014/07/26)

敢えて麓から徒歩で上ったが「険しい!」
これはそうそう簡単に攻略できないな、というのが感想です。
山頂からは麓が一望できました。
他に来ている方はなく、セミの声や麓の道路を走る車の音がこだましていました。
上る時は攻撃軍、山頂に着くと防衛軍の気分が満喫できます。

タクジロー(2014/08/01)

あきのすけ様
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
確かに、鳥越城はなかなか難攻不落の城ですよね。
登るときは攻め手、山頂では防御というのは言い得て妙ですね(*^_^*)。
またのご訪問とコメントをお持ちしております。

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