三河 川尻城(新城市作手)

主郭下の腰曲輪に建てられた模擬冠木門と見事な紅葉

上野国から移住してきた奥平氏が最初に築いて住んだ城

所在地

愛知県新城市作手高里字城山
【アクセス】
国道301号線「作手総合支所東(旧作手村役場東)信号」から東進し、作手高校の南側道路を通り過ぎ、高校の東端で左折し北上すると、 右手前方に城跡の小高い丘が見える。周りの山は杉林だが、城跡の山は広葉樹なのですぐ分かると思う。 そのまま道なり右へ曲がると城跡へ辿り着く。
城跡(丘)の南東に広い駐車場がある。

形状

平山城(標高570m、比高差約40m)

現状・遺構等

現状:城山公園
遺構等:曲輪、土塁、空堀、模擬冠木門、標柱、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2010/11/28

歴史等

新田氏が没落した天授年中(1375~80)に、奥平貞俊が上野国甘楽郡奥平より作手へ山崎三郎左衛門高元を頼って移ってきた。
その後、勢力人望を得て川尻城を築いた。
しかし、川尻城が手狭になったため、応永31年(1424)により広い清岳に亀山城を築いて移った。
『「亀山城説明板」、「愛知の山城ベスト50を歩く・中井均著(サンライズ出版刊)」参照』

*「現地(川尻城)説明板」と「日本城郭大系9」には、それぞれ応永年間(1394~1428)、応永31年(1424) に貞俊によって築かれたとなっている。

現況・登城記・感想等

川尻城跡は公園として綺麗に整備されている。登城当日は、盛りは過ぎてはいたが、紅葉がきれいだった!
遺構は必ずしも、良好に残っているとは言えないが、注意深く見て廻ると土塁や空堀の跡などが散見される。
主郭は山頂部にあり、南北約40m、東西約70mの楕円形をしており、往時は周囲を取り囲んでいたであろう土塁が所々に残っている。
また、主郭の北側10mほど下段に腰曲輪を配し、空堀跡の形跡も認められる。
主郭からの眺望は素晴らしく、古宮城跡塞之神城跡文殊山城跡が見える。
(2010/11/28登城して)

ギャラリー

川尻城跡全景
国道301号線「作手総合支所東(旧作手村役場東)信号」から東進し、作手高校の南側道路を通り過ぎ、 高校の東端で左折し北上すると、右手前方に城跡の小高い丘が見える。周りの山は杉林だが、城跡の山は広葉樹なのですぐ分かる。

主郭下の腰曲輪に建てられた模擬冠木門と柵
駐車場に車を置いて整備されて道を登って行くと、正面に冠木門が見えてくる。

主郭
主郭は山頂部にあり、南北約40m、東西約70mとかなり広く、 まるで天守台跡のような一段高い所には戦没者の忠魂碑が建っている。

主郭からの眺望
主郭からの眺望は素晴らしく、古宮城跡 塞之神城跡 文殊山城跡が見える。また、このすぐ下の紅葉がきれいだった!

主郭に立つ城址碑と説明板、背後には僅かに残る土塁が
主郭には標柱と説明板が設けられていたが、説明内容が、亀山城の説明内容と食い違っているのが解せない (苦笑)。紅葉の絨毯がすごかった!

主郭北東部に残る土塁
主郭には、往時は周囲を取り囲んでいたであろう土塁が所々に残っている。 この北東部の土塁が最も明瞭に残っている。

主郭北の虎口
上写真土塁の左(西)側には虎口が設けられている。

空堀跡
虎口から降りていくと、土塁と空堀跡らしき形跡が確認される。

出丸?
空堀の向こう(北東部)には出丸のような曲輪があり、左(北)側には低いながら土塁跡も確認できる。 また土塁は、上写真の土塁と写真手前にある低い土塁と二重土塁のようになっている。

城の北側は湿地帯
城の北側は池などもあり、今でも湿地帯のようになっている。この辺り、 見た目よりも往時は堅固だったのかもしれない。

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