三河 牛久保城(豊川市)

小公園のような敷地に立つ背の高い城址碑

一色城主牧野成勝が牧野氏の拠点として築いた城

別名

牛窪城

所在地

愛知県豊川市牛久保町城跡
【アクセス】
飯田線牛久保駅のすぐ横(北東)にある踏切の東の敷地(渡辺マタニティークリニックの前)に石碑と説明板が立つ。写真を撮る間だけ、 渡辺マタニティークリニックの駐車場に車を置かせてもらった。

形状

平城

現状・遺構等

現状:市街地
遺構等:石碑、説明板

満足度

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訪城日

2010/11/28

歴史等

牧野氏は応永年間(1394~1428)に牧野城を構え、さらに明応2年(1493)に牧野古白(成時)が、 隣接する地に瀬木城を築いて移った。
その後、享禄2年(1529)に一色城主牧野成勝が、今橋城 (のちの吉田城)主信成の命を受けて、一色城に接して築城し、拠点としたのが牛久保城である。 そして信成の子出羽守保成が城主となった。
牛久保城築城の頃、松平清康の侵入により東三河の多くが清康の支配下になったことがある。この時、吉田城も清康勢によって攻め落とされ、 牧野信成以下一族家臣の多くが討死してしまった。
清康没後は、また東三河は今川氏の支配下に置かれ続け、牧野氏も今川方に属した。
しかし、永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で討たれたのを期に三河国内は松平元康(後の徳川家康)を中心にして揺れ始めることになる。
古白以来ずっと、今川氏に属していた牧野氏も、成定の代の永禄8年(1565)には、家康への臣従を誓い、 三河国衆として徳川家臣団に組み込まれた。
そして、天正18年(1590)8月、家康の関東移封に伴い、成定の跡を継いだ康成は譜代諸士として、上野大胡城2万石の大名となった。
康成の後継忠成は元和4年(1618)に越後長岡城へ6万4千石 (後には7万4千石)で移封し、越後長岡藩は13代続いて明治に至った。
牧野氏の去った牛久保城は、吉田城に入った池田照政 (後に輝政)の支配となり、池田家の臣荒尾平左衛門の預かりとなったが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後には天領となり、元禄13年 (1700)には廃城となった。
『「日本字城郭大系9」、「現地説明板」等参照』

現況・登城記・感想等

城は、市街地に埋もれてしまい、小さな公園のような敷地に背の高い石碑と説明板が立っているだけである。
説明板には、牛久保城付近の古図や大聖寺(今川義元墓所)・長谷寺(山本勘介の墓)等周辺の文化財の地図も載っている。
(2010/11/28訪れて)

ギャラリー

説明板と奥の方に城址碑
城は市街地に埋もれ、小公園のような敷地に説明板と背の高い城址碑が立っているだけである。

牛久保城付近の古図(現地説明板より)
牛久保城は扇状台地の端に造られた平城で、南は下郷の地を一望でき、北は二重の堀をめぐらせた城であった。 城を取り囲むように武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていた。 城に向かって真っ直ぐに入る道はなく、全ての道が曲尺手(かねんて)になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようである。

周辺の文化財(現地説明板より)
説明板には、大聖寺(今川義元墓所)・長谷寺(山本勘介の墓)等周辺の文化財の地図も載っている。 廻りたかったが、どうにも時間がなかった。いつか、また来ることもあるだろうと思い諦めた。

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