三河 足助真弓山城(豊田市足助町)

本丸に復元された高櫓と長屋

足助七城の一つ、発掘調査を元に櫓や門等が復元公開されている

別名

足助城、松山城、足助松山の城

所在地

愛知県豊田市(足助町)足助町須沢39-2(足助城跡公園)
足助城跡公園:電話0565-62-0770
営業時間9:00~16:30
休業日:年末年始

形状

山城(標高301m)

現状・遺構等

【現状】 足助城跡公園
【遺構等】 復元櫓、曲輪、土塁、堀切、井戸、石碑、遺構案内(説明)板、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/08/17

歴史等

真弓山城は、鎌倉時代に足助氏が居城した「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられるが、発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられる。
鈴木氏は、戦国時代に西三河山間部に勢力を持っていた一族で、その中で、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代忠親は、15世紀後半の人といわれる。
16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返したが、永禄7年(1564)以降は、松平氏に降った。
元亀2年(1571)に武田信玄が三河へ侵攻した際に城を明渡したが、天正元年年(1573)には家康の長男信康が城を奪還し、再び鈴木氏に守らせた。その後、鈴木氏は家康に従い、高天神城の戦いなど各地で戦功を挙げた。
天正18年(1890)康重のとき、徳川家康の関東入国に従い真弓山城は廃城となった。
その後、間もなく鈴木氏も家康から離れ、浪人したと伝えられる。
『「足助城跡公園管理事務所パンフレット」、「現地説明板」他より』


【足助七屋敷(足助七城)】
「足助七屋敷」は、足助氏が支配した時代(鎌倉時代)につくられたとされる城館、
「足助七城」は、鈴木氏が支配した時代(戦国時代)につくられたとされる城館と言われている。
鎌倉時代から南北朝時代に活躍した豪族足助氏は、飯盛山城を本城として、真弓山城、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城(きびゅうじょう)、臼木ヶ峯城を配置、これらの城砦は足助七屋敷と言われた。真弓山城も足助七屋敷の一つと伝わっているが、発掘調査をおこなった地点からは、この時代の遺構を発見することができなかった。
室町時代になって足助氏が没落すると、三河鈴木氏の一流である足助鈴木氏が足助地方を支配した。足助鈴木氏は真弓山城を本城として、八桑城(新盛城)、安代城、浅谷城、大沼城、阿須利城、田代城といった有力支城を配置して、これらを足助七城と呼んだ。
室町時代から戦国時代にかけて、三河鈴木氏は寺部鈴木氏、酒呑鈴木氏、足助鈴木氏、則定鈴木氏などの諸家に分かれて、西三河山間部に盤踞した。
『「遺跡現地説明会資料:(財)愛知県教育サービスセンター、愛知県埋蔵文化財センター」等参照』

現況・登城記・感想等

真弓山城は、標高301mの真弓山山頂を本丸として四方に張り出した尾根に塁段になった曲輪が配置された連郭式山城である。
現在、主郭部は、発掘調査を元に、本丸高櫓・物見櫓・門・柵などが復元された城跡公園として整備されている。竹下登首相が発案し、1988から89年に実施された「1億円ふるさと創生事業」を利用して整備したのだそうだ。
観光化の賛否はともかく、夏真っ盛りのこの時期、普通なら、熊ベル鳴らしながら、藪漕ぎの山城探訪は助かる(*^_^*)。
尚、紅葉の名所・香嵐渓のすぐ近くなので、本来は秋に訪れたいところだが、逆に、大変な渋滞となるので・・・( ̄ー ̄;。
(2011/08/17登城して)

ギャラリー

戦国期の足助周辺の道と城(現地説明板より)
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真弓山城縄張想定図(パンフレットより) ~画面をクリックにて拡大~
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真弓山城主郭部見取り図(パンフレットより) ~画面をクリックにて拡大~
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説明板と管理事務所
真弓山城までは、車で登れる、駐車場も完備している。管理事務所前には日本語は勿論、英語による立派な説明板が設置されている。豊田市とはいえ、かなりの山奥にあるのに、外人さんの観光客も多いのだろうか?尚、本来は「真弓山城」であるが、足助町は「足助城」として売り出しているようで、説明板も「足助城」となり、ここまで来る道にも「足助城」の案内板があった。
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入城
入城料金300円をはらい入って行く。正面奥に冠木門が見える。尚、開門は9:00、閉門は16:30となっているが、入城は16:00までなのでご注意ください。私は、到着したのが15:45でギリギリセーフ( ̄ー ̄;。城めぐりは、設置された順路案内に沿って歩いて行く。
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日月の碑
冠木門をくぐると左手に大きな石碑がある。説明板によると「真弓山には、南北朝時代まで足助地方に勢力をもっていた足助氏の本城があったと伝えられ、山頂の本丸には、「日月の碑」で知られる真弓山城墟碑や足助重春の歌碑などが建てられていたが、昭和10年代に研究が進み、足助氏の本城は、真弓山から西南西の飯盛山にあったことが分かった。この碑は復元整備にあたり、本丸から移したもの」だそうだ。
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南の丸を見上げる
さらに進むと、正面高台(南の丸)上に復元された建物、その向こうに南物見櫓が見えてくる。南の丸切岸下には堀切が設けられている。
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堀切
南の丸の南下の堀切は、案内板が設置されているにも関わらず気が付かなかったが、帰り道に南の丸の切岸下からはっきり確認できた。堀切には橋が架けられ、その上に土が盛られていたのだ。
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南の丸腰曲輪
順路に従って南の丸手前を西へ曲がって行くと、左(南)下に削平地(曲輪)が見える。この下にも塁段になった曲輪が続いているようだ。
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井戸
さらに順路に沿って進むと左斜面下に井戸がある。この井戸は、山の斜面からの湧水を溜めるために造った井戸で、ツルベでなく大きな柄杓で汲んでいたそうだ。
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西の丸へ
井戸を左下に見ながら坂道を登って行くと西の丸入口が見え、西物見櫓が見えてくる。
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西物見櫓と本丸高櫓
西物見櫓は、飯田街道を見張るために建てられた櫓である。
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西の丸と西物見櫓

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西の丸腰曲輪
西の丸の下には、腰曲輪が設けられている。この西尾根には、さらに塁段状に曲輪が設けられているようだが、なにぶん時間が全く足りないので断念(/。ヽ)。
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南の丸への入口の「はねあげ戸」
西の丸から南の丸へ向かうと、入口の門には、
柵を上にあげて一瞬で閉めることのできる「はねあげ戸」が設けられている。
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南の丸
南の丸は、台所の役割をもつ曲輪で、復元した建物跡の他に、カマドに使われた石や炭なども見つかっている。左手前が「カマド小屋」。左上に南物見櫓が見える。
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本丸・南物見台間の堀切
本丸と南櫓台との間は堀切が設けられ木橋が復元されている。
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南物見台から伊那街道を見下ろす
南物見櫓は、伊那街道を見張るために造られた櫓である。また、南方にある鶏足城も望むことができる。鶏足城への連絡も兼ねた櫓であったようだ。
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堀切に架かる木橋を渡り、本丸へ向かう
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本丸へ
本丸へは、本丸切岸の東側面に設けられた道を通って行き、Uターンするように門をくぐって入って行く。
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本丸
本丸には、発掘調査に基づき、掘っ建て柱の高櫓と長屋が復元されている。
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本丸高櫓から足助の町並みを見下ろす
本丸から西方面には足助の町並みを眼下に見下ろすとともに、名古屋へ向かう飯田街道を望むことができる。正面中央の山は飯盛山城で、その右横の森は足助八幡宮。右の山の手前には城山城と大観音城がある。
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北腰曲輪
本丸の北下には北腰曲輪が設けられ、この下にも幾つもの腰曲輪が設けられている。
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北腰曲輪から本丸高櫓と左奥に南物見櫓を
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