本丸と二の丸間の内堀
長篠の戦い時に最後まで籠城した城
所在地
愛知県新城市長篠字市場
JR飯田線「長篠城駅」から西南へ約500m、無料駐車場有り
形状
崖端台城
現状・遺構等
【現状】 城址公園、宅地等
【遺構等】 曲輪、土塁、堀、碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
1990/06/23
2007/07/31
歴史等
永正5年(1508)、山家三方衆の一人長篠菅沼元成が築城した。当時は今川氏に属していたが、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で討たれると松平氏(徳川)の配下に入った。
元亀2年(1571)武田軍が奥三河に侵攻を始めると、田峯菅沼氏の勧めで徳川を裏切り武田氏に従ったため、天正元年(1573)武田信玄の死後、徳川家康は長篠城を攻め、菅沼氏を信濃に追いやり、城を奪還した。この時、奥平氏は武田軍より離脱し、徳川氏に走った。
天正3年(1575)2月、家康は奥平信昌(貞昌)を城主に任命し、城郭を整備した。同年5月1日、武田勝頼軍1万5千が来襲し、信昌以下5百が守る城を包囲した。11日から始まった武田軍の猛攻の前に、三の丸、弾正郭はたちまち落ち、武田軍は本丸土塁を掘り崩しはじめた。籠城軍は、14日夜、織田・徳川連合軍への危急の連絡に、鳥居強右衛門(すねえもん)を遣わせた。強右衛門は首尾よく脱出し、織田信長・徳川家康に、長篠城の危急を知らせ、速やかな出馬を要請した。両将が、それに確答を与え、強右衛門はその報を持って城へ取って返した。
しかし、16日、武田軍に捕まってしまい、城へは戻れなかった。強右衛門を取り調べた武田勝頼は、「城に向かって援軍は来ないと叫べ!もし首尾よくいけばそなたを重く用いるであろう。さもなくば殺す」と、偽りの復命をするよう強要した。
翌朝、城の前に連れていかれた強右衛門は、城に向かい、「織田、徳川の両大将は大軍を率いて間もなく長篠に御着陣のはずじゃ。あと2、3日堅固に守れ!!」と叫んだ。これにより、城の士気は大いに揚がった。これに怒った武田軍は、見せしめの為、城の対岸で強右衛門を磔にした。
強右衛門が死を賭して報告した通り、18日、織田・徳川連合軍3万8千が設楽原に到着し、21日の夜明けと共に合戦(長篠・設楽原の戦い)となり、武田軍は数千挺の銃撃の前に壊滅的な打撃を受け敗退した。
翌年、奥平氏は新城城へ移り長篠城は廃城となった。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
長篠城といえば長篠の合戦であり、有名なのは、
①日本で初めて大量の鉄砲を使用した戦いであること。
②鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の武勇伝(武田軍の包囲を脱して岡崎城へ援軍を頼みに行ったが帰りに捕まり、磔にされながらも援軍の到来を告げた)。
の二つであろう。
長篠城は、豊川本流(寒狭川)と宇連川の合流する三角地帯で、非常に高い断崖の上にある。鳥居強右衛門が救援を求めるために城を脱出した時もこの断崖を降りていったのであろう。よくぞ脱出できたものだ等と、感慨に耽りながら谷底を覗いたりして回った。
(1990/06/23登城して)
17年ぶりに登城した。前回は時間もほとんどなく、土塁上と本丸を簡単にぐるっと廻っただけであった。今回も、取り敢えず堀を真下に見ながら土塁の上を歩き、本丸の周りを、飯田線越しに野牛郭や武田軍が陣を敷いたという鳶ノ巣山等々の山並みや宇連川等の絶壁を見ながら廻った。
今回は、鳥居強右衛門が磔にされた対岸にも行った。そこには、城址への入口の所にもある「強右衛門の磔の絵の看板」と「磔刑の地の碑」が建っていた。以前から思っていたことで、磔にされた強右衛門さんには申し訳ないが、その絵はマンガチックというか当時としては非常に斬新なイラストのような左右対称の絵で妙に興味をそそる。
そしてそこからの帰り道に偶然、豊川(寒狭川)と宇連川の合流点の少し川下に架かる橋を渡ることになり、牛淵橋の上から長篠城の全景を眺めることが出来たのはラッキーだった。確かに、両川ともに断崖絶壁であり、天然の要害にあることがよく分かる。
ただ、今回も時間があまりなく、野牛郭等々や、設楽原長篠の合戦場と、その時の勝頼・信長・家康等々の陣跡などを見て廻れなかったのは残念であった。近いうちに長篠城史跡保存館(今日は火曜日で休館だった)でパンフレットを貰い、ゆっくりと見て廻ろうと思う。
(2007/07/31登城して)
ギャラリー
長篠城縄張略図(現地案内板より)
鳥居強右衛門磔の絵の看板(国道151号線の長篠城址入口)
武田軍の家臣落合佐平次は、鳥居強右衛門の忠義の行動に惚れ込み、その磔にされた姿を自分の旗印にして戦場に立つようになったという。
以前から思っていたことで、磔にされた強右衛門さんには申し訳ないが、その絵はマンガチックというか当時としては非常に斬新なイラストレイティックな左右対称の絵で妙に興味をそそる。
本丸へ
二の丸(帯郭)跡に建つ保存館脇の駐車場に車を停めて本丸へ向かいます。
本丸と二の丸間の内堀(北部分)
本丸への虎口手前両側には内堀が設けられていますが、その内、左側(東側)の堀は良好に残っています。 しっかり横矢が掛けられ、深さは城内土塁側(写真右側)から8m、二の丸側(写真左側)からは5mほどあります。
本丸と二の丸間の内堀(東部分)
内堀には、往時は水が引き入れられていたそうです。
本丸虎口
本丸土塁
本丸虎口の左側(東側)の土塁は良好に残っています。
本丸土塁上にて
本丸
野牛郭
本丸と野牛郭の間は、今ではJR飯田線で断ち切られています(/。ヽ)。
本丸から武田軍5砦を
長篠城の南東を流れる宇連川の向こうには、信玄の弟・武田信実をはじめとする武田軍が陣をはった鳶ケ巣砦をはじめ、君ケ伏床砦・姥ケ懐砦・中山砦・久間砦があります。
本丸から寒狭川(現豊川)を見下ろす
長篠城の南西は、寒狭川(現豊川)が旧崖の下を流れ天然の要害にあったのが分かります。
弾正郭
本丸の西側に矢沢(現・碁石川)を隔てて弾正曲輪があるが、現在は民家となっています。尚、写真の石垣は往時のものではないようです。
鳥居強右衛門の磔の地(磔刑の地の碑と強右衛門の磔の絵の看板)
長篠城全景 ~クリックにて拡大画面に~
豊川(寒狭川)と宇連川の合流点の少し川下に架かる橋を渡ることになり、牛淵橋の上から長篠城の全景を眺めることが出来たのはラッキーだった。確かに、両川ともに断崖絶壁であり、天然の要害にあることがよく分かる。左が寒狭川(豊川)、右が宇連川。