三河 新城城(新城市)

新城小学校グラウンド東南隅に残る土塁

長篠の戦いで戦功のあった奥平信昌により築かれた城

別名

新城陣屋(慶安元年以降)

所在地

愛知県新城市字西入船76、新城小学校
新城小学校:電話0536-22-0112

形状

平城、陣屋

現状・遺構等

現状:新城小学校
遺構等:土塁、空堀、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2009/05/13

歴史等

新城(しんしろ)城は、長篠の戦いで戦功のあった奥平信昌が、徳川家康に長篠城は狭いので新城を築くよう命じられ、天正3年(1575)着工し、翌4年(1576)9月に竣工した。この時、長篠城の建造物は全てこの新城に移築されたという。そして、この新しい城で、信昌は家康の長女亀姫を新しい妻として与えられている。
この城は、「しんしろ」という市名の由来になったとされる城跡である。ここが「新城城(しんしろじょう)」と名付けられたのは、 長篠城に対しての新城(しんじょう)であったが、すでに天文元年(1532)に菅沼定継が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城(しんじょう)」と呼ばれており、それと区別するために「新城城」となったとも言われている。
現在の新城小学校の運動場の一帯が本丸で、堀と土塁で囲まれていた。
初代城主信昌は、天正18年(1590)に家康の関東入国に伴い、上野国宮崎(現群馬県富岡市)に3万石を与えられて移り、長男家昌は宇都宮城主となった。そして、子孫は豊前中津城主として10万石を与えられ、明治維新を迎えた。
信昌の四男忠明は亀姫の産んだ子なので、家康の養子となり松平姓を許され、その子孫は明治維新時に武蔵忍城10万石の領主であった。
信昌が関東に去った後、新城城は吉田城主池田輝政の支配下に入ったが、慶長5年(1600)天領となった。
その後、慶長11年(1606)緒川城から水野分長が1万2千石で入封した。水野氏は2代続き、嫡男元綱のとき、正保2年(1645)に上州安中城2万石に転封となり、新城城は廃城となった。
しかし、慶安元年(1648)、菅沼定実(野田城主菅沼定盈の孫)が7千石を領して、ここに陣屋を構え、以来、明治2年(1869)の廃藩置県に至っている。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

城跡は本丸跡が新城小学校のグランドになって、本丸に巡っていたであろう土塁・空堀はほとんど残ってないが、僅かに、グランドの南東隅に土塁が残り石碑と説明板が立っている。
また、土塁の裏側には堀も残っているが、19:00になってしまい暗くてよく見えなかった。
(2009/05/13訪れて)

ギャラリー

新城の地名発祥の地の石碑
新城城が新城の地名の発祥で、小学校グラウンドの東南隅に残る土塁の手前に「新城の地名発祥の地」の大きな石碑があった。

石碑と説明板
土塁上に城址碑と説明板が設置されている。土塁上はかなり広く、櫓台でもあったのかも?


土塁の裏には堀があった。かなり深そうだったが、19:00になり暗くてよく見えなかった。

新城小学校校門
校門が立派だったので、陣屋の門かと思ったが、どうやら違うようだ!?

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