本丸跡の祠と鳥居、左の方には城址碑
今川義元が西駿河の押さえとするため築城
所在地
静岡県焼津市高崎城山
【行き方】
「東名日本坂PA」から600m程東の東名高速の下を北西へくぐり、「鳴沢不動尊」
方面へ500mほど進むと道が二手に分かれるので右手へ行く。そこから400m程行くと下写真の5叉路に出る。
写真の背後の山が花沢城址である。
正面に「通行注意の看板(写真やや右)」がある。この看板の右手の道を50m程行き、カーブ手前の左手が登城口となる。
尚、「通行注意の看板」の左の方にも花沢城址の白い標柱(ギャラリー最初の写真)があるので注意して下さい。地元の人に尋ねても、
大抵はこれしか知らないようです。
形状
山城(標高:150m、比高:100m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、空堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2004/06/29
歴史等
戦国期に駿府への交通の要所を守備するため築城された山城である。日本坂越えや、
山間部の丸子や海岸部の用宗との連絡道の確保や監視を目的とした。
城の創築については不明な点が多いが、天文年間(1532~1555)には存在していたようであり、初代を今川氏一門の関口氏縁(うじより)
とする説もある。
義元の死後、武田信玄は駿河侵攻作戦を展開した。永禄12年(1569)12月、信玄は4回目の駿河侵攻を行い、蒲原城を攻略し、
駿府城を開城させ、初めて駿府より西に駒を進め、永禄13年(1570)正月4日より花沢城を包囲し、激しく攻めた。城は、
今川氏真の武将で、旧吉田城主の大原肥前守資良が手兵と守っていた。
資良は果敢な防戦をしたが、遂に降伏し、開城した。
武田氏が占拠した後、これを改修した史料はない。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)参照』
現況・登城記・感想等
高草山の麓の小高い山の上にあったが、近くまでは、すぐ行ったものの登り口が分からず、地元の何人かに聞いても分からなかった。
確かに決してメジャーな城ではないし当然かなと思いつつ探し、やっと見付かった。
結構傾斜がきつい道で、しかも登るにつれて益々急角度になっていく上、茶畑になり道らしきものが無くなっていく。
それでも構わず登って行くと頂上が平坦地になっており、小さな鳥居と祠があり「花沢城址」の碑が建っていた。
眼下の焼津市街の眺望が素晴らしい。
出張時に寄ったので、背広と革靴で登ったら、靴がすっかり駄目になってしまった(汗)。
(2004/06/29登城して)
ギャラリー
花沢城址の碑
ここから登城道がなかなか見つからなかった。
茶畑の中を登城
登り始めてしばらくすると、茶畑の上の方に本丸が見えてくる。結構な坂道で、
下りの時に革靴がすっかり駄目に(苦笑)
本丸跡
本丸跡はみかん畑になっており、片隅に小さな祠が祀られ、石碑も立っている。
花沢城址の石碑(本丸跡にて)
本丸からの眺望
本丸からは、焼津市街がよく見える。