二ノ曲輪跡に立つ城址碑と説明板
今川氏のお家騒動時に太田道灌が布陣、その後北条早雲も居城した城
所在地
静岡県静岡市駿河区八幡山(八幡山公園)
形状
平山城(標高63.7m)
現状・遺構等
現状:公園
遺構等:曲輪、堀切?、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/04/14
歴史等
応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、駿府防衛のために、周辺の要所要所に城塞を築いた。八幡山城
(やはたやまじょう)もその一つである。
文明8年(1476)今川義忠が遠州において横地残党に討たれると、今川氏の跡目を狙う小鹿派と竜王丸派の紛争が勃発した。この時、
鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ1.
5km、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方持舟城(用宗城)まで5km、
それらは全て指呼の間に一望することの出来る重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、
石脇城
(焼津市)から移り、自ら駿府の警護に当たっていた。
長享元年(1487)、新九郎は小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、興国寺城
(沼津)へ移った。
永禄3年(1560)、桶狭間にて今川義元が敗れ、今川氏真の代になると、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、
相模の後北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河府中に侵入し、今川氏真を遠江掛川城に追い落とした。
永禄12年(1569)武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくこの八幡山城を使用した。
天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正18年(1590)関東へ移った後、廃城になったと思われる。
『参照:現地案内板等』
現況・登城記・感想等
八幡山城(やはたやまじょう)の麓にある八幡神社脇から、頂上の本曲輪跡までは、7分から8分ほどで着く。
途中、物見場所らしき出丸のような突き出た地形の所があり、そこからは木々の間から西方が望める。そして、二の曲輪跡らしき、
この城では最も広い削平地があり、石碑と説明板が建っている。本曲輪の二の曲輪側隅には櫓台跡らしき土塁がある。二の曲輪、
本曲輪の外郭は絶壁とは云えないまでも、かなりの急崖になっており、自然のものに少し手をかけたものであろう。
本曲輪からの眺望は良く、眼下には静岡の街並み、その向こうには山並み、そして南東方面には駿河湾が見える。
案内板には、「曲輪や空堀などの遺構を見ることができる」とあったが、よく見て周ったつもりだが、空堀には気が付かなかった。
また遺構はあまり残っていないようだ。
しかしながら、麓の八幡神社脇から登城し、城郭内に一歩入ると、中世の山城跡を窺がわせるような雰囲気が僅かながらも残り、
静岡の住宅地の真ん中にあることを忘れさせてくれる。
(2007/04/14登城して)
ギャラリー
八幡山城全景
八幡城址は、
現在八幡公園になっており、山麓には八幡神社が建っており、その脇から登城した。
登城道
八幡神社脇から登城し、
城郭内に一歩入ると、中世の山城跡を窺がわせるような雰囲気が僅かながらも残り、静岡の住宅地の真ん中にあることを忘れさせてくれる。
㊧物見箇所?
㊨その物見からの眺望 ~㊨はクリックにて拡大画面に~
途中、
物見場所らしき出丸のような突き出た地形の所があり、そこからは木々の間から西方が望める。奥に見える山並みは、用宗方面の山並み。
二の曲輪
二の曲輪跡
(この城では最も広い削平地)には、石碑と説明板が建っている。
本曲輪
本曲輪からの眺望 ~クリックにて拡大画面に~
本曲輪からの眺望は良く、
眼下には静岡の街並み、その向こうには山並み、そして南東方面(㊨写真)には駿河湾が見える。
本曲輪に残る櫓台跡?
金網の中は立ち入り禁止になっている。