遠江 横地城(菊川市)

城内へ通じる一騎駆

遠江の古名族・横地氏の平安時代末期から室町時代まで400年間の本拠地

所在地

静岡県菊川市東横地

形状

山城(標高101.7m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、空堀、一騎駈、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2007/06/17

歴史等

鎌倉時代から室町時代にかけて、遠江の古名族として武威を示した横地氏は、平安時代末期(11世紀中頃)に源(八幡太郎) 義家と相良の土豪相良太郎左衛門光頼(実は維頼)との娘との間に生まれた長庶子・家長(家永)に始まる。
その後文明8年(1476)まで、約400年間一貫して遠江に勢力を張ってきた横地氏累代にとって、この横地はまさに懸命の地であった。
文明年間、横地氏は同族の勝間田氏と共に、今川氏に対抗して敗れ、両将共に討死した。横地氏は西軍山名氏方に属したため、斯波氏と通じ、 反今川勢を鮮明にした。そのため今川義忠は大軍をもって横地城を襲い、文明8年(1476)2月勝間田城と共に落城したのである。
一方、戦に勝った今川義忠もその帰路、南山正林寺付近にて横地の残党により命を落としたため、今川家に相続争いが生じ、 これをおさめた伊勢新九郎(北条早雲)が台頭するきっかけとなった。
その後、永正年間(1504~1518)に至り、今川氏の遠州掃討によって、横地氏は滅亡し、わずかに残る者も各地に四散した。
なお、この菊川の横地が全国の横地姓の発祥の地となっている。
藤谷神社蔵の系図より横地氏歴代を以下に略述する。
1代家永(家長)が横地氏始祖、2代頼兼、3代長宗、保元の乱で源義朝に従う。4代長重、源頼朝の挙兵に応じ、義経の鵯越・屋島・ 壇ノ浦に戦う。5代長直、鎌倉将軍のため掛川の御所造営、天竜川に浮橋を架け、毎年御弓始めの式につとめる。6代師重、7代師長、 蒙古襲来時京都の禁裏警備、8代長国、笠置城攻めに勲功あり、北朝方に属した。9代長則、足利尊氏に従う。10代家長、山城守、 今川了俊と共に九州各地に転戦、討死。11代長豊、上杉禅秀の乱に功あり。12代長泰永享の乱にて討死。13代長秀、応仁元年出陣、 14代秀国、汐見坂にて討死。15代元国永正2年生まれる。16代元次(藤丸と同一人か)、武田信玄に仕える。17代義次、はじめ武田氏に、 後徳川家康に従う。
『「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

横地城は予想以上に大規模な山城であった。
東名高速「菊川インター」を降り、御前崎方面へ200mほど南下し、最初の信号を左折し3kmほど行くと、右側に大きな「横地城跡」 の案内板が見える。そこを左折して九十九折の細い道を登って行くと、横地氏一族の墓があり、さらに進むと一面茶畑の平坦地になり、 藤丸館跡~隠し井戸~斯波武衛邸宅跡~のろし台跡~武衛原駐車場へと細いくねくね道が続く。ずっと車一台がやっと通れるような道で、 すれ違いが出来る様な所もほとんどなく、対向車が来たらどうしようとビクビクしながらの運転である。
武衛原の駐車場に車を停めて歩き始める。しばらく深山幽谷といった中を歩くが、道の下は絶壁である。崖下まで50mはゆうにあるだろう。 さらに進むと道は尾根道となり、「一騎駈け」と呼ばれる細い尾根道に出る。両側は絶壁で、ここからが狭義の城域であろう。ここで、 マムシの赤ん坊を踏みつけそうになった。焦った(汗、汗・・)!!
次に、また一瞬ビックリした~!!。 何と、そこに建つ案内板に、「金玉落とし」と書かれている。「金玉落し」とは、「城兵の戦闘訓練時、 兵は谷底に待機。山上より太鼓を合図に金の玉を落し、兵は一斉に尾根を駆け上がり、さらに谷に下り、その玉を探し当てた者は、 山に駆け上がって賞を貰った」とのことである。な~んだ。運動会みたいなものか?!
そして、その谷を迂回して進んで行くと、千畳敷に至る。途中、土塁上(二の丸下)に井戸跡があり、今でも水を湛えている。 (井戸の中を覗こうと土塁に登ったら、蛙が井戸に飛び込んだので、一瞬驚いた。蛇でなくて良かった。)
千畳敷には、石碑や説明板がやたらとある。その千畳敷の北が二の丸(西の城)跡であり、今は横地神社になっている。神社に登る石段があり、 登って行くと、途中に土塁、空堀、腰曲輪が確認出来る。腰曲輪は、東と北側に伸びる尾根にいくつもの塁段となっているようだ。
千畳敷から、さら東へと進んで行くと、中の城、木戸跡があり、本丸(金寿丸)へと出る。そこへの道も一騎駆けのように細く、 特に左側の崖はまさに「千尋の谷」である。本丸の標高は101.7mで、頂上は狭く、東西30m、南北約13mだそうであり、 一部土塁が巡っていたような形跡がある。
本丸北側の下にも腰曲輪があり、そこにも井戸(天井戸)跡が残っていた。その腰曲輪からも、北西及び西側に伸びる尾根があり、 塁段になった腰曲輪がいくつもあるのが見え、本丸北側の下の曲輪との間の堀切は確認しやすい。ただ本来なら、 それらの腰曲輪や堀切の下の方にも入って行くところであるが、先程見たマムシの赤ん坊がトラウマになっていて、草茫々になったところへは、 今日は、チョット躊躇!!(汗)。
(2007/06/17登城して)

ギャラリー

横地氏一族の墓

藤丸館跡
横地氏最後の若君の屋敷跡

隠し井戸
この草の中が深くなっており、 その底に隠し井戸があるとのことであったが、とても降りて行く気にはなれなかった。

斯波武衛邸宅跡
応仁の乱の西軍の雄斯波武衛義廉の邸宅と云われ、 この一帯に家臣団の住居があったと伝えられる。

一騎駆け
両岸が切り立った絶壁で、 大軍を擁しても、通過するには一騎づつしか渡れないので、この名が起きた。
 

金玉落しの谷
この標柱を見て一瞬ビックリ! ! 「城兵の戦闘訓練時、兵は谷底に待機。山上より太鼓を合図に金の玉を落し、兵は一斉に尾根を駆け上がり、さらに谷に下り、 その玉を探し当てた者は、山に駆け上がって賞を貰った。」とのこと。な~んだ、要するに運動会みたいなものか?!
 

井戸
土塁上(二の丸下)に井戸跡があり、 今でも水を湛えている。(井戸の中を覗こうと土塁に登ったら、蛙が井戸に飛び込んだので、一瞬驚いた。蛇でなくて良かった。)

千畳敷
千畳敷には、 石碑や説明板がやたらとある。

千畳敷に建つ石碑
 

二の丸への石段

二の丸の土塁と空堀

㊧二の丸上(横地神社)、 ㊨二の丸腰曲輪
 

中の城

千尋の谷
中の城から本丸(金寿丸) への道も一騎駆けのように細く、特に左側の崖はまさに「千尋の谷」であった。

本丸(金寿丸)

本丸上にて
本丸には一部土塁が残っている。

本丸からの景色

本丸北側下の腰曲輪
写真左奥に堀切、 右奥の標柱の所に井戸跡

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コメント

ガラオの父(2009/06/11)

初めてお便りさせていただきます。
静岡に来て二年弱のもので、現在藤枝市に住んでおります。
古城、城郭に興味があっても縁の薄い土地にいたせいもあってこちらに来てから「欣喜雀躍」と巡り歩いています。
タクジロウさんのページには関心そのもの、大変参考にさせていただいております。
昨日、この横地城を訪ねて来ました。まさに先生(タクジロウさん)の訪問記のとうりの状態、ギャラリーのままの山の古城跡でした。
ここ一年程で近場のとこから少しずつ探索の歩を進めています。まずは先生のページを参考にさせていただくお礼でした。
蛇足ですがこの城跡での現地解説の表示に『城』とすべきを『成』となっていたのが気に成りました。コメントに写真を添付できるのならしてみたいものです。

タクジロー(2009/06/12)

ガラオの父さま
藤枝にお住まいを移ったとか。
私も、近くの静岡市に永く住んでいたことがあるので、懐かしいような羨ましいような気がします。
『城』が『成』になっているのは気が付きませんでした。
このコメントでは、写真添付は出来ませんが、掲示板(上の「掲示板」のボタンを押して戴ければ画面が変ります)の方でできるので、添付して戴けると有難いです。
今後とも、宜しくお願いします。

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