駿河 泉頭城(清水町)

柿田川に湧き出る富士山の伏流水

柿田川湧水の水源地にあった駿河と伊豆の国境にある後北条氏の城

所在地

静岡県駿東郡清水町玉川、柿田川公園
駐車場:国道一号線の柿田川公園入口信号の東約100mに町営の無料駐車場への入口があるが、 国道一号線の下り側からしか入れないので要注意。

形状

平城

現状・遺構等

現状:柿田川公園
遺構等:土塁、堀、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2009/06/27

歴史等

泉頭(いづみかしら)城は、戦国時代の終わ頃には、後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目をはたしていた。
永禄12年(1569)、後北条氏は家臣・多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、戸倉城や伊豆徳倉城と連絡して、 武田信玄の侵攻に備えた。
天正8年(1580)、武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋・ 市南の足軽大将が各々百騎づつ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していた。 天正9年(1581)戸倉城が武田軍に降参すると、 泉頭城のまわりの村々は武田軍の手によって焼き払われてしまった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は韮山城山中城へ引き上げた。
元和元年(1615)、徳川家康は泉頭城の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め、家臣・土井利勝、 本多正純に隠居御殿の城を造営することを命じたが、元和2年(1616)家康が没したので取り止めになった。
その後、城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になったが、大正の頃まで城跡はよく残っていたそうである。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

泉頭(いづみかしら)城址は、富士山の伏流水が湧き出る水源地として有名な「柿田川公園」として整備され、 都会のオアシスとして人気があり、多くの家族連れで賑わっている。
公園入口の東隅に、縄張図付きの大きな説明板が設置されているので、それを見てから廻ることをお薦めする。
城域は、東西400m、南北500mあり、縄張りは、二ノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これを取り囲んで北の曲輪、 東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪小郭、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸を配置していた。そして、 それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空堀で防御され、土橋と木橋で結ばれていた。
縄張図を見てから廻っても、湧水公園は結構広い上に、地形があまりにも複雑で、土塁や空堀らしきものが至る所にありよく分からなかった(汗) 。
(2009/06/27登城して)

ギャラリー

縄張図(現地説明板より)

城址は柿田川公園に
柿田川公園は、富士山の伏流水が湧き出る水源地として有名である。

説明板
柿田川湧水群としては有名だが、ここに遊びに来ている人のほとんどが、城址であるとは知らないだろう。 意外にも、公園入口東隅にこんな大きな城の説明板があり驚いた。また私も、この説明板を見るまで『いづみかしらじょう』 と読むとは知らなかった。

公園広場
正面入口から入ると広場がある。柿田川公園は都会のオアシスとして人気があり、 今日も多くの家族連れで賑わっていた。写真奥の森の中が西曲輪にあたるようだ。

二ノ洞
上写真の広場の東の方に、二ノ洞がある。こんな処を覗いている人は他にはいなかった(笑)が、 まるで人工の堀跡のようだ。

三の洞
駐車場の東側には三の洞がある。三ノ洞も、強烈な藪になってはいるが、はっきりと分かる。

貴船神社
貴船神社周辺が西曲輪にあたるようだ。貴船神社は柿田川へ突き出すような土塁上にあり、 周囲が切り立っている。

土塁?と空堀?
右側の土塁上に貴船神社が鎮座しているが、この土塁や空堀は自然のもの?人工的なもの?
このような、土塁が公園の至る所にあったが・・・?

本曲輪
本曲輪はかなり広かったようで、今は駐車場になっている。

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