伊勢 東阿倉川陣屋(四日市市)

宅地化した陣屋跡。御蔵跡は児童公園に

和歌山藩徳川家臣加納氏が、吉宗が将軍になり知行を与えられ構えた陣屋

別名

八田陣屋

所在地

三重県四日市市万古町(旧東阿倉川)

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 宅地
【遺構等】 なし

満足度

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訪城日

2014/03/25

歴史等

享保元年(1716)、和歌山藩主徳川氏に仕えていた加納久通は8代将軍になった吉宗に従って旗本に復し、御用人になり伊勢国三重郡内に1千石を与えられた。さらに翌年(1717)下総国相馬郡内に1千石、享保11年(1726)伊勢国三重・多気、上総国長柄3郡内で8千石を加増され、1万石を領有して、三重郡東阿倉川に陣屋を構えて東阿倉川藩(八田藩)を立藩した。
久儔の時の文化9年(1812)、上総国一宮に陣屋(一宮陣屋)を移し、東阿倉川藩は廃藩となった。
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)より』

現況・登城記・感想等

子供の頃、父から「四日市市は天領だが、東阿倉川だけは千葉にあった加納藩の飛び地だった。」と聞いたことがある。
東阿倉川(現阿倉川町、万古町を含む)は僅か500m平方ほどしかないだろう。どうして、こんな狭い所だけ飛び地にしたのだろうと不思議に思ったものだ。
そして、今回、たまたま手にした「藩と城下町の事典」で、江戸時代には東阿倉川に陣屋があったことを知った。
東阿倉川は、私の子供の頃から住宅地(一部田園)になっており、それらしき所は残っていなかった。陣屋を上総一宮(千葉県)に移したのは1812年ということだから、それほど遠い昔ではないし見つかるだろうということで、陣屋のあった場所を郷土史等で調べたが全く分からなかった(;>_<;)。
そこで、止むを得ずTOP写真には、実家の庭を載せた(失礼)。我が家は、江戸時代以前から、ここにあったようだから陣屋跡地でないことは明確だが・・・(苦笑)。

今回の帰省で、たまたま東阿倉川陣屋跡の所在地が分かりました。実家の隣の80歳代の叔母さんが知っていたのですw(*゚o゚*)w。
その場所は、実家から直線距離にして100m強ほどの所でした。その叔母さんが子供の頃には、まだ陣屋の集米所である御蔵があったそうで、その御蔵を「ゴングラ」と呼んでいたそうです。
今では、その「ゴングラ」跡は、児童公園になり、周囲は住宅が密集しています。
公園の北東隅に4mほどある石柱(TOP写真右端)が立っています。文字等は刻まれていませんが、当時のものでしょうかねえ? 
さらに分かったことですが、我が家のすぐ傍(20~30mほど南東)が「代官屋敷跡」なのだそうです。
そこは、今ではアパートが建っていますが、子供の頃は周囲より一段高くなった畑地で、その北端には4本の巨木が聳えていました。そして、私は、その巨木に登って、よく蝉取りをしたものです。蝉取り名人の私は、本当に、よく捕まえたものです(笑)。
尤も、夜になると、その辺りは暗くて通るのが怖かったという思い出もありますが(苦笑)。
(2014/03/25訪れて)

ギャラリー

代官屋敷跡
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コメント

内田博司(2013/03/26)

元千葉県知事の加納久朗氏のご先祖が四日市の代官だったと思い違いをしていました。正しくは東阿倉川が加納藩の飛び地だったのですね。私は30歳まで末永町に住んでいて、四日市高校の卒業生です。ご先祖は戦国時代から東阿倉川にいたそうです。私の伯父が郷土史家で海蔵少誌という郷土史の編纂に関わっていました。

タクジロー(2013/03/27)

内田博司さま
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
同郷、しかも四日市高校卒ということで同窓でもあり、本当に嬉しいです。
末永町でしたら、多分、小学校と中学校も同じですね(*^_^*)。
これからも時々、当サイトへのご訪問とコメントをお待ちしております。

内田博司(2013/03/27)

私は昭和20年生れなのでタクジローさんより1年上かと思います。海蔵小、暁中でした。現在、千葉/幕張に住んでいます。加納さんのことで千葉に親近感を持っていましたが、何故か千葉に住むことになりました。縁(えにし)というものを考えるようになりました。

タクジロー(2013/03/27)

早々にご返事を戴きまして、ありがとうございます。
先輩からコメントを戴き、本当に嬉しいです。
今後とも、宜しくお願い致します。
5月連休に帰省しようと思っていますので、その時に「海蔵小誌」を何とか手に入れたいと思います。

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