伊勢 高岡城(鈴鹿市)

高岡城跡公園入口の石碑

信長の2度にわたる攻城にも落ちなかった神戸氏家老山路弾正の城

所在地

三重県鈴鹿市高岡町(高岡城跡公園)
【アクセス】
県道103号線「高岡北信号」の南西の山が城跡であり、「高岡北信号」の南4~500mほどにある「鈴鹿川橋」から北西に見える。
四日市方面から県道103号線(伊勢街道)を南進し、「高岡北信号」を右折し1km弱西進すると左手に小公園がある。その小公園を過ぎたところを左折し南進し、城跡の南西側へ廻りこむと鋭角に曲がる細い道があるので、その道へ入り、道なりに登って行く。終点が城跡公園で駐車場(10台ほど駐車可)がある。

形状

平山城(標高約50m)

現状・遺構等

【現状】高岡城跡公園(山林)
【遺構等】曲輪、土塁?、堀切?、石碑、説明碑

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2011/04/18

歴史等

高岡城の築城時期は不明であるが、城下に参宮街道を押さえ、神戸城を守る北の支城として築かれた。
神戸利盛が弘治年間(1555~58)に沢城から神戸城に移り、この神戸城の支城である東の岸岡城と北の高岡城が強化された。
永禄10年(1567)と翌11年の2度にわたり、織田信長の大軍が攻めてきた。高岡城の城主は神戸友盛の家老で、知勇兼備の名将山路弾正であり、これを防ぎ屈しなかった。
信長は神戸城主友盛と和睦し、三男・信孝を神戸家の養子にした。
元亀2年(1571)正月、信長命により信孝は神戸友盛を神戸城に移る前の沢城に隠居させ、さらに、元亀元年(1571)に近江の蒲生氏郷に預けた。 
主君友盛の不遇に義憤を覚えた弾正は、平野城主伊藤茂右衛門らと謀って、神戸城討伐を企てたが不意を襲われて自害に追い込まれた。
その後、信孝の異母兄弟の小島兵部が高岡城主となったが、天正10年(1582)の本能寺の変後、信孝が岐阜に帰ると兵部は神戸城主となり、その後、高岡城の名は史料から消えた。
『「日本城郭大系10」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

高岡城は、標高約50mほどの、特別高い山ではないが、見るからに全周囲が急崖になった天然の要害地にある。
城跡は公園となり、車で頂上部まで登って行けるというので、細い上、片側は急崖の山道を登って行ったら、軽トラックと出会ってしまい四苦八苦 w(*゚o゚*)w。すれ違いができるような場所はほとんどなく、かなりの距離をバックして・・・(冷汗)。
そういうわけで、初めて登って行った時は間違えたと思い、途中、ちょっとした場所で、何度もハンドルを切り返して下山してしまった。
その後、その山に間違いないことが分かり、危険を承知でリベンジ(苦笑)。幸い、対抗車にも会わず無事頂上まで到着。何のことはない、前回切り返して戻った場所から約50mほどの所が頂上だった(苦笑)。いずれにしても、大型車での登城は止めた方が良いだろう。
さて、城跡であるが、頂上には結構広い駐車場があり、立派な城址石碑が立ち、その南奥が主郭のようだ。
主郭手前には堀切様の浅い窪みがあり、区画されているようだったが、それ以外の遺構は、はっきりしない。
城跡から南方面眼下に広がる眺望はよく、鈴鹿市内から伊勢湾まで一望できる。
何はともあれ、やれやれ(*^_^*)。
(2011/04/18登城して)

ギャラリー

鈴鹿川の対岸から眺める高岡城跡遠望
高岡城は、標高約50mほどの、特別高い山ではないが、全周囲が急崖になった天然の要害地(写真で見るとそうでもないが)にあり、南側を流れる鈴鹿川が天然の堀になっていたのもよく分かる。
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曲輪
頂上部の曲輪跡は公園になり、四阿というには大きすぎる?休憩所が建てられ、その脇に随分立派な説明碑が立っている。
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城址説明碑
公園入口の石碑(TOP写真)もそうだが、随分立派な城址説明碑が立っている。
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空堀?
公園の中央部に堀切様の浅い窪みがあり、区画されているようだった。周囲を散策したが、一部、削平地が認められたが、それ以外には明瞭な遺構は分からなかった。
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眺望
南方面眼下に広がる眺望はよく、鈴鹿市内から伊勢湾まで一望でき、数隻の汽船が見えた。
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