主郭周囲の土塁と空堀
賤ヶ岳合戦や小牧長久手合戦の前哨戦で2度の争奪戦が繰り広げられた城
所在地
三重県亀山市川崎町森
【アクセス】
JA鈴鹿川崎支店の北方約200mほどに見える山が城跡。「八島橋東詰」信号を200mほど西進すると左手にJA鈴鹿川崎支店、右手(北)約200mに低い山が見えるが、その山が城跡。私は、城跡になるべく近い農道の少しばかり広い場所に路駐したが、JA鈴鹿にも駐車させてもらえるのでは?
JA鈴鹿川崎支店:亀山市川崎町2699、電話0595-85-0102
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、天守台、石垣の一部?、空堀、井戸、標柱、説明板(縄張図付き)
満足度
★★★☆☆
訪城日
2012/11/07
歴史等
峯城は、元弘年間(1331~33)に築かれたとも、正平年間(1346~70)に関盛忠の五男峯政実が築城したとも伝えられる。
峯氏6代の居城であったが、天正2年(1574)峯八郎四郎が伊勢長島で討ち死にしたため峯氏は滅亡した。
その後は岡本宗憲が城主となったとされるが、天正11年(1583)羽柴秀吉の賤ヶ岳の合戦、翌12年小牧長久手の戦いの前哨戦により2度の争奪戦が繰り広げられた。
天正18年(1590)岡本宗憲が亀山城に移されるにあたり廃城にされたと伝えられる。
峯城中心部の北・西・東側には高い土塁が廻り、一段高い土壇には瓦が散布していることから、石垣を持ち瓦葺きの建物が存在したものと考えられる。中心部の北にはいわゆる虎口も見られ、室町末期から安土桃山時代にかけての城郭の姿が良好に遺されており、中世城郭から近世城郭への過度期の状況が窺える全国的にも希少な例である。
『「現地説明板」、「織豊系城郭見どころ事典・平成20年5月号歴史読本別冊付録(新人物往来社刊)」より』
現況・登城記・感想等
峯城は安楽川と八島川に挟まれた標高85m程度の丘陵地に位置する山城である。
城跡は、多くの部分は山林となっているが、主郭周辺部は比較的整備されている。
曲輪間を仕切る土塁・空堀は良好に残り、主郭土塁上に散布する瓦片から瓦葺きの天守の存在が知られ、天守台には、本当に僅かながら石垣の一部が確認できる。
主郭と、深い空堀を隔てた北側にも、独立した曲輪が設けられている。その曲輪は、織豊系の特徴の一つである枡形を連続させた縄張りだそうで、当城址の最大の見どころのようだが、空堀があまりにも深い上、藪がひどく、また時間もなかったので、今回は入って行くのを諦めた(/。ヽ)。
(2012/11/07登城して)
ギャラリー
峯城縄張図(現地説明板より)
遠景
JA鈴鹿川崎支店の北方約200mほどに見える山が城跡です。(中央手前の低い山)
入城(登城口)
JA鈴鹿川崎支店の辺りから、農道と畦道を歩いて行くと、林の中に説明板が見えてくる。ここが登城口です。そのすぐ後ろは崖(切岸)になっているが、既に城域です。
登城道
登城口から右手に城址の西側を廻るように進んでいく。勿論、この道は往時のものではないでしょうが。
城址標柱
登城口から4分ほど歩いてくると、正面に城についての説明が掛かれた城址標柱が現れる。ここから右へと登って行く。
土塁
標柱のところから登り始めて1分。左手に土塁が現れる。
二の丸
左手には二の丸が。二の丸にも北側(手前)には土塁が設けられている。
空堀
道に沿って本丸へ向かって歩いて行くと、左手には明瞭に残る空堀と土塁が・・・。空堀の写真右側が本丸。
本丸南部分
本丸跡は、中央部分のみ、木や竹が切られて整備されている。その切り取られた竹が、そのまま本丸南部分に放置されている。止むを得ず、その上を、バリバリ音をたてながら西の方へ歩いて行った。写真左は、上写真の土塁である。
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土塁
放置された竹の上を歩いて行くと、正面に高い土塁が見えてくる。
天守台跡?
高い土塁の上に登ると、もう一段高くて、広い土壇がある。これが、天守台のようだ。案内によると、天守台部分には石垣が一部残っているとのことだが、僅かに見えた石がその一部だろうか??
本丸西側の土塁
天守台を越えると、細長い土塁が続く。左(西)側は急崖になっている。写真右側は、本丸北側の曲輪らしいが、木々と藪がひどくて分からなかった。
北西隅の土塁
本丸北側の曲輪の北西隅の土塁も少し高くて、広くなっている。櫓でも建っていたのだろうか。
大堀切
本丸北側の曲輪の土塁の北側は、すごく深い空堀になっており、その向こう(北側)には独立した曲輪が設けられている。その曲輪は、織豊系の特徴の一つである枡形を連続させた縄張りだそうで、当城址の最大の見どころのようだが、空堀があまりにも深い上、藪がひどく、また時間もなかったので、今回は入って行くのを諦めた(/。ヽ)。