城址丘陵下に立つ石碑と説明板
伊勢北部に勢力を張った桓武平氏・関氏一族の本城
別名
亀山城、若山城、丹陵城
所在地
亀山市若山町字古城
【行き方】
歴史博物館の西側を通る県道647号線を100mほど南進すると、斜め左(東)に入る路地がある。
その路地を入ってすぐ左手に石碑と説明板が立っている。亀山城址の西にあたる。
形状
平山城
現状・遺構等
現状:丘、宅地等
遺構等:石碑、説明板
満足度
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訪城日
2010/01/29
歴史等
亀山城(亀山古城)は、伊勢北部に勢力を張った桓武平氏・関氏一族の本城である。
平家一門でも評判の良い重盛(清盛の長男)であったが、その次男資盛は平家の威を鼻にかけ乱暴な振る舞いが多く、父重盛が怒り、
資盛をこの地方へ流したことに始まる。
資盛は、ここで一子盛国をもうける。時は源氏の世となり、盛国は同じ平氏である北条氏の庇護を受けて鎌倉で死去するが、
その子実忠は鎌倉方となり、北伊勢の平氏残党の反乱を鎮圧し、その功で祖父資盛の流された地域を与えられ、地名をとって関氏を名乗り、
文永2年(1265)、若山に亀山城を築いたという。
近世の亀山城と区別するために亀山古城と呼んでいる。
また、若山が「赤山」の訛りと考えられたことから「丹陵城」と称したという。
以後、関氏累代の居城であったが、永禄10年(1567)及び翌年、織田信長が北伊勢へ侵入し、同族は次々と降り、
ついに関氏当主盛信も降伏し、幽閉され、亀山城は神戸信孝に与えられた。
この時、監視役蒲生秀賢と縁を作った。盛信は、やがて許されると、比叡山の僧であった長男一政を還俗させて跡継ぎとし、
その妻に秀賢の娘を迎えた。豊臣秀吉は、頭角を現した秀賢の子氏郷の同族与力として一政を扱った。
天正11年(1583)に羽柴秀吉の攻城に際し、織田信孝方の城将の佐治新介はよく防戦したものの、加藤清正・山内一豊・
細川忠興らの猛攻により遂に落城し、関盛信の子・一政が城主となった。
天正18年(1590)、氏郷が会津転封となるや一政もそれに従って白河城5万石を領して移った。
代って、岡本良勝(宗憲)が入ったが、城郭はかなり荒れ果てていたらしい。良勝は天正18年(1590)、関氏の城よりも東の地へ近世城郭
「亀山城」
を築き、亀山古城は廃城となった。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
石碑や説明板の立っている小さな空地の裏山が、城址の一部だそうで、それなりの雰囲気を感じた?
工事の交通整理をしていた方に尋ねると、以前、登って行った人がいて、その方の話では「何も無かった」とのことだ。
私も、登ろうかと思ったが、個人宅の庭から強引に登るしかないようなので諦めた。
(2010/01/29訪れて)