伊勢 亀山城(亀山市)

天守台石垣の上に建つ多聞櫓

桓武平氏・関氏の本拠、その後石川数正の叔父の家系が11代で明治を迎える

別名

胡蝶城、粉蝶城

所在地

三重県亀山市本丸町

形状

平山城

現状・遺構等

現状:本丸周辺は亀山公園、西出丸跡は亀山神社境内、内堀跡はグラウンド
遺構等:本丸跡の天守台石垣上に多聞櫓が現存(三重県下唯一の城郭遺構)、本丸石垣の一部、南側・北側の外堀、家老長屋門・土蔵、模擬塀、 曲輪跡

満足度

★★★☆☆

訪城日

1990/04/30
2006/05/03
2010/01/29

歴史等

亀山城 (亀山古城)は、伊勢北部に勢力を張った桓武平氏・関氏一族の本城である。平家一門でも評判の良い重盛(清盛の長男)であったが、 その次男資盛は平家の威を鼻にかけ乱暴な振る舞いが多く、父重盛が怒り、資盛をこの地方へ流したことに始まる。
資盛は、ここで一子盛国をもうける。時は源氏の世となり、盛国は同じ平氏である北条氏の庇護を受けて鎌倉で死去するが、 その子実忠は鎌倉方となり、北伊勢の平氏残党の反乱を鎮圧し、その功で祖父資盛の流された地域を与えられ、地名をとって関氏を名乗り、 文永2年(1265)、若山に亀山城 (亀山市若山町)を築いたという。
永禄10年(1567)及び翌年、織田信長が北伊勢へ侵入し、同族は次々と降り、ついに関氏当主盛信も降伏し、幽閉された。この時、 監視役蒲生秀賢と縁を作った。盛信は、やがて許されると、比叡山の僧であった長男一政を還俗させて跡継ぎとし、その妻に秀賢の娘を迎えた。 豊臣秀吉は、頭角を現した秀賢の子氏郷の同族与力として一政を扱った。天正18年(1590)、氏郷が会津転封となるや一政もそれに従って白河城5万石を領して移った。
代って、岡本良勝(宗憲)が入ったが、城郭はかなり荒れ果てていたらしい。良勝は天正18年(1590)、 関氏の城よりも東の地へ近世城郭を築いた。当初は三層の天守閣があったが、寛永9年(1632)に幕命により解体され、正保年間 (1644~47)天守台に多聞櫓が築かれた。(天守解体については、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したという話があるが真偽のほどは定かではない。 )
天守南西の高石垣は直高14.5mもあり、野面石(自然石)を牛蒡積みとした中くぼみの扇形勾配で、堅固・優美さを整えており、 400余年の風雪に今も耐えている。
白壁の櫓・門・土塀等を連ねる景観を蝶の群が舞う姿に例えられて「粉蝶城」とも呼ばれた。
しかし良勝は慶長5年(1600)の関が原の戦で西軍に与したため改易され、関一政が3万石で返り咲いたが、慶長16年(1611) 伯耆黒坂5万石に移封された。
ついで、松平氏、天領を経て、三宅氏、本多氏、石川氏、板倉氏、松平氏、板倉氏(再度)、松平氏、板倉氏(再再度)と、 城主はめまぐるしく替わるが、延享元年(1744)、石川総慶が6万石で備中松山から返り咲き、 石川氏が11代約126年続いて明治を迎える。
明治以後、城郭の大半が破却され、現在は天守台・多聞櫓・外堀・土塁の一部が残るのみであるが、 多聞櫓は県下で唯一現存する城郭建造物として、昭和28年三重県史跡に指定された。
なお、伊勢亀山城の石川家は、家康の筆頭家老の地位にありながら、秀吉の元に翻しった石川数正の家系であり、 数正の直系は大久保長安事件に連座して改易となるが、数正の叔父の家成が亀山石川家の祖である。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」「フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)・関一政』」参照』

現況・登城記・感想等

天守台の石垣上に小さな多聞櫓があり、一部、堀が残っているという印象があるだけである。しかしながら、 我が出身地三重県で唯一の城郭遺構ということで特別な感情を持った。また、徳川の天下の元で、 石川数正の系統の大名が残れたというのも驚きというか不思議な感じがする。
(1990/04/30訪城して)

16年ぶりに登城しました。記憶というのは、曖昧なものですね、現存多聞櫓の下にこんなに深い堀があったなんて全く記憶になかった。しかも、 石垣が結構高くて、小さな櫓ではあるが随分立派に見える。
(2006/05/03登城して)

2007/04/15の地震で石垣が崩れたと聞いたので、その後、どうなっているのか見に行った。
多聞櫓の建つ天守台への石段周辺は修復が終わっているようだったが、櫓の裏(西)側の修復がまだで、入って行けなかった。
(2010/01/29登城して)

ギャラリー

亀山城平面図(現地説明板より)   ~クリックにて拡大画面に~

城址碑と天守台上の多聞櫓
後方は天守台上の移築現存多聞櫓

天守台上に建つ多聞櫓(現存)
この多聞櫓は三重県で唯一の現存城郭建築物である。

天守台上への石段
 

修復中の天守台石垣
地震で倒壊してから3年近く経つが、多聞櫓の裏(西)側の修復はまだ終わっていなかった。

天守台上から多聞櫓を(2006/05/03に撮った写真)
2010/01/29現在は、地震により石垣倒壊の修復中で、ここへは入って行けない。

多聞櫓下の空堀

空堀の底から多聞櫓を撮影

天守台石垣
典型的な野面積みで、野性味あふれる石垣だ。
 

ここも、ご多聞に漏れず墓石等がかなり使われてる

南側の水堀
天守台上から望む。

北側の堀
水堀の復元作業なのか、シャベルカーなどが入っていた。(2010/01/29)

模擬塀
 

楠門跡
二の丸から本丸に通じる枡形門で、櫓門は安政元年(1854)の大地震で倒壊した。

本丸北側の三重櫓跡
ここにあった三重櫓は、寛永18年(1641)に、当時の城主本多俊次が天守閣の代わりとして築いたもので、 亀山城で唯一の三重櫓であった。

関見櫓跡
西出丸の二重櫓で、亀山城西端の関町方面を望見する位置にあることから、関見櫓と呼ばれた。

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