一ノ郭と八ノ郭を断ち切る大堀切
藤原氏を祖とする後藤氏の城、郭間の空堀は圧巻
所在地
三重県四日市市釆女町字北山
【アクセス】
国道1号線「内部橋北詰」信号を西へ入り、内部川沿いに1.5km程北西へ進んだ右手に城址碑や説明板等があります。この脇が登城口で、登城口から更に50m程進んだ左手にちょっとした空き地があります。ここに駐車しました。
所要時間
登城口から一ノ郭まで5分ほど。今回(2015/05/18)の所要時間は約1時間でした。
形状
平山城
現状・遺構
現状:公園(山林)
遺構等:曲輪、土塁、堀切、土橋、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/11/24
2015/05/18
歴史等
藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し、後藤左衛門尉基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)平賀朝雅の討伐に奮闘した。
後藤伊勢守基秀は、文応元年(1260)先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり一族郎党を引き連れて采女の地に移住、采女山(北山)に城郭を築いた。
以来、300有余年、連綿と治政して続いたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略に遭った。
関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)遂に落城した。
言い伝えによれば、城主・藤勝は討死し千奈美姫も主郭の深井戸に身を投げて父の後を追ったという。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
采女城は、内部川と足見川の合流点の北側にある丘陵上に築かれた城で、南北に延びる尾根上に、連郭式に一ノ郭、二ノ郭、三ノ郭を置き、さらにそこから西・南西・南の三方に延びる尾根上に五ノ郭から九ノ郭の曲輪を連郭式に配する縄張になっています。
各曲輪の周囲の多くには土塁が設けられ、曲輪間は空堀で断ち切られています。それら土塁や空堀は良好に残り、さらに土橋も良好に残っています。中でも、規模の大きな空堀は見応え満点です。
城跡は市民緑地として六ノ郭・七ノ郭・九ノ郭を除いて、綺麗に整備され、しかも遺構等に余計な手を入れずに残されています。
私としては、故郷四日市にこれだけ素晴らしい城跡が残っているのは嬉しいかぎりです。
(2015/05/17登城して)
ギャラリー
縄張図(上が北) ~クリックにて拡大画面に~
南北に延びる尾根上に、連郭式に一ノ郭、二ノ郭、三ノ郭を置き、さらにそこから西・南西・南の三方に延びる尾根上に五ノ郭から九ノ郭の曲輪を連郭式に配する縄張になっています。
登城口①
内部川に沿った道路端に石碑が建ち、その左側に登城口があります。
登城口②
登城口の左側には縄張図が・・・。
城門跡(大手門跡?)
登城口から整備された坂道を3分ほど登ると、崖に囲まれた平坦地へ出ます。城門跡のようですが、大手門跡でしょうか?平坦地の左奥には五ノ郭への虎口が見えます。
五ノ郭への虎口
五ノ郭への虎口は右へ直角に曲がるようになっていますが、ちょっとした枡形虎口になっています。
五ノ郭への虎口(五ノ郭から見下ろす)
五ノ郭と一ノ郭を繋ぐ土橋
両側は深い堀切になっており、土橋の上に板橋が置かれています。橋の奥は一の郭への虎口です。虎口はかなり埋まっていますが、枡形虎口となっています。
五ノ郭と一ノ郭間の堀切(土橋上から撮影)
一ノ郭
一ノ郭は30~50m×60mとかなりの広さを誇り、ほぼ周囲全面を土塁が囲んでいます。
一ノ郭の井戸
一ノ郭の中央には大きな井戸が残っています。言い伝えによれば、永禄11年(1568)に織田信長の家臣滝川一益に攻められた際に、城主・後藤藤勝は自刃し、千奈美姫もこの深井戸に身を投げて父の後を追ったという。後世の人々の間に、この古井戸から「夜な夜な女のすすり泣きが聞こえてくる」とか「馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引く」など語り継がれているそうです。
一ノ郭の東面から北面にかけての土塁
一ノ郭周囲には、ほぼ全面に土塁が残っていますが、中でも東面から北面にかけての土塁は良好に残り、その高さは2m近くあります。
一ノ郭と八ノ郭間の大堀切① (一ノ郭側から撮影)
一ノ郭から南へ向かうと大堀切が現れます。写真奥上が八ノ郭です。
一ノ郭と八の7郭間の大堀切②(堀底にて撮影)
この大堀切は、上部幅8~10mほどあり、堀底から一ノ郭上(写真右)まで高さ約5m、八ノ郭上(写真左)までは2~3mほどあります。
八ノ郭
八ノ郭東側の土塁
八ノ郭は、東側にだけ土塁が設けられています。
八ノ郭南東からの眺望
八ノ郭の南東部土塁上からの眺望で、采女城跡で唯一眺望が開けた場所です。ここは物見台かも?
八ノ郭南側の堀切
八ノ郭の南側も堀切で断ち切られています。この堀切も上部幅5~6m、深さ3m近くあり、見応え充分です。
土橋
堀切の東端には幅1m、長さ4mほどの土橋が架かっています。
出丸?
八ノ郭の南側の長細い平坦地ですが、出丸といったところでしょうか?
二ノ郭へ
一ノ郭へ戻り、一ノ郭北西から二ノ郭へ向かいます。写真手前が主郭側で、左端の土橋を渡って空堀の向こうに見える二ノ郭へ行きます。二ノ郭の奥には土塁があり、左側奥の高くて広い土塁上は櫓跡推定地です。
一ノ郭と二ノ郭間の堀切
この堀切は、上部幅7mほどあり、堀底から一ノ郭上(写真右)まで高さ3.5mほど、二ノ郭上(写真左)まで高さ2m強あります。
二ノ郭から振り返って堀切越しに一ノ郭を
写真右の土橋の左側堀切は上写真の空堀です。空堀の向こう側上は、一ノ郭の土塁です
一ノ郭と二ノ郭間の堀切の西端に架かる土橋
一ノ郭と二ノ郭間の堀切の東西両端には土橋が設けられており、当時は水を溜めていたようです。
一ノ郭と二ノ郭間の堀切の東端に架かる土橋
写真では分かり辛いかもしれませんが、写真やや左側が土橋になっています。
二ノ郭
二ノ郭も南側(堀切側)を除く周囲を土塁が囲んでおり、北側の土塁(写真左側)は櫓跡推定地とされています。
櫓跡推定地
櫓跡推定地は、他の部分よりやや高く、広くなっています。
二ノ郭土塁上(櫓跡推定地)から堀切を越しに三ノ郭を
二ノ郭と三ノ郭間の堀切
この堀切も、上部幅7mほど、あり、堀底から二ノ郭土塁上(写真右)まで高さ3.5mほど、三ノ郭上(写真左)まで高さ2m強あり、なかなか見応えがあります。
堀切東端の土橋
この二ノ郭と三ノ郭間の堀切も、一ノ郭と二ノ郭間の堀切と同様、切通しになっておらず、両端に土橋がかかり水を溜める構造のなっていたようです。
三ノ郭
三ノ郭も相当な広さ(一ノ郭に次ぐ)です。
三ノ郭の土塁
三ノ郭も南側(堀切側)を除く周囲には土塁が設けられています。土塁は、一ノ郭や二ノ郭より低いが、土塁の外側は急崖になっております。
三ノ郭南西部の虎口
三ノ郭の南西部は、四ノ郭や五ノ郭から入ってくる虎口になっています。虎口は、二重枡形のような複雑な構造になっており、なかなか堅固なようです。写真左側が二ノ郭で、中央奥が五ノ郭に通じる道、右奥が四ノ郭です。
四ノ郭
三ノ郭南西部の虎口から、枡形のような堀底道を西へ登って行くと四ノ郭へ出ます。
四ノ郭の土塁
四ノ郭も、南側を除く周囲を高さ1mほどの土塁が囲んでいます。
四ノ郭西側の堀切
四ノ郭の西側も堀切で断ち切られています。この堀切も、なかなか規模が大きくて、堀底から四ノ郭上(写真右)までは高さ4~5mほどあり、私は滑り落ちてしまいました(汗)。
五ノ郭へ戻る
四ノ郭の尾根伝い奥には九ノ郭があるのですが、未整備状態なので諦めて、二ノ郭・一ノ郭経由で五ノ郭へ戻りました。写真は、一ノ郭枡形虎口跡から堀切・土橋越しに五ノ郭を撮ったものですが、五ノ郭周囲には土塁がめぐっていないようです。
五ノ郭北側の竪堀
五ノ郭の北側には大規模な空堀があります。ただし、縄張図を見なければ気が付かないほど浅くなっています。
五ノ郭と六ノ郭を断ち切る堀切
この五ノ郭と六ノ郭を断ち切る堀切も、なかなか規模が大きく、堀底から五ノ郭上(写真右)までの高さは5mほど、六ノ郭の土塁上(写真左)までの高さは3mほどあり、見応え充分です。
六ノ郭土塁上から堀切を
六ノ郭の土塁は上部幅が2m強ほどある分厚いものです。
六ノ郭
六ノ郭周囲は、上写真のような分厚い土塁で囲まれています。郭内は、未整備状態で入って行くのは止めました。六ノ郭の奥(南西)には七ノ郭がありますが、勿論、諦めました。尚、当写真は六ノ郭の北東部の土塁上から撮ったものです。