伊勢 上野城(津市)

本丸跡、櫓台上には展望台が

織田信包(信長の弟)が津城完成前に仮城として入城

所在地

三重県津市河芸町上野字城屋敷(本城山青少年公園)

形状

平山城(標高30m)

現状・遺構等

現状:本城山青少年公園
遺構等:櫓台、曲輪、土塁、空堀、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/09/25

歴史等

長野氏の養子になった織田信包(信長の弟)が、元亀元年(1570)津城の仮城として伊勢上野城を築いて入った。
築城したのは長野氏の一族・分部光嘉(実は細野藤光の子)である。光嘉は、信長の中伊勢侵入に際し、いち早くその麾下に加わったのである。
天正8年(1580)津城の完成と共に、 信包は新城に入り、光嘉が城代となったが、文禄4年(1595)になると、光嘉は秀吉から1万石を与えられ、晴れて独立した大名となった。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際、光嘉は徳川方に属し、津城主富田信高を助け、その功により所領2万石となった。
しかし、その子・光信は、元和元年(1615)近江大溝に移封となり、 上野城は廃された。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』

現況・登城記・感想等

伊勢上野城跡は、本城山青少年公園となっている。
本丸周囲には土塁がよく残り、北隅の一段高い櫓台跡、更には井戸跡まで残っているが、 櫓台上にやたらとデカイ展望台が聳えているのに違和感を感じる。
こうしてみると、いつも不自然に感じていた、各地にある模擬天守代風の展望台が懐かしくさえなってくるから不思議だ(or勝手なものだ!?) 。おまけにこの展望台、下のほうは磨りガラス、上の方は金網が張り巡らされていて、景色が見づらい上に、周りは木々が鬱蒼と生えていて、 眺望は決してよくない。
本丸南東下には、二の丸があり、アスレチックの設備がある広場となっているが、ここにも緩やかな斜面に櫓台跡のような土塁があったが、 果たして・・・?
また、本丸西下は鬱蒼とした竹薮になっているが、侍屋敷跡らしく、暗い中に削平地と土塁が確認できた。
本の丸と二の丸、及び本丸西の侍屋敷跡以外はグランドや駐車場造成等によりかなり改変されているようで、城郭の全体像が掴めない。
結構多くの遺構が残っている割に、何か違和感があり、満足できない城跡だった。
(2008/09/25登城して)

ギャラリー

本丸
本丸跡は、周囲を土塁で囲まれていたようで、その土塁がよく残っている。

本丸南側の土塁
特にこの南側の本丸土塁は良好に残っている。

展望台
本丸北隅の櫓台上にやたらとデカイ展望台が聳えている。どうも違和感を感じる。こうしてみると、 いつも不自然に感じていた、各地にある模擬天守代風の展望台が懐かしくさえなってくるから不思議なものだ(or勝手なものだ!?)。

展望台からの眺望!?
おまけにこの展望台、下のほうは磨りガラス、上の方は金網が張り巡らされていて、景色が見づらい上に、 周りは木々が鬱蒼と生えていて、眺望は決してよくない。何の為の展望台??

本丸井戸跡
立て札がやたらと立っているのに、井戸に関する説明は全くなし。

二の丸の櫓台??
本丸南東部下の二の丸跡に櫓台のような緩い傾斜の土塁があったが、これは多分公園造成のときのものだろうな! ?

二の丸から本丸南側の土塁を
なかなか立派な土塁で、高さ5mはあるだろう。

侍屋敷跡
本丸西下は鬱蒼とした竹薮になっているが、侍屋敷跡らしく、暗い中に削平地と土塁が確認できたが、 あまりの暗さで写真がこの通り。これでもパソコンで精一杯調整したんだけど(泣)。

本丸全景(本丸東側のグラウンドから)
本丸東側は野球グラウンドになっている。そこから本丸全景を撮ったもので、写真の通り土塁は、 かなり立派なものである。本来展望台が右上にあるが、木々に遮られ全く見えない。不思議な展望台だ!?

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