本丸跡に僅かに残る石垣
荒木村重が信長に反旗を翻し、説得に赴いた黒田官兵衛が幽閉されていた城
所在地
兵庫県伊丹市伊丹2丁目(JR伊丹駅前の城址公園)
形状
平城
現状・遺構
現状:公園、市街地
遺構等:曲輪、石垣、堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/10/14
歴史等
伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
伊丹氏の城は、天正2年(1574)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北1.6km・東西800mに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。
天正6年(1578)村重は石山本願寺包囲中突然に本願寺方に立った。何故、村重は信長に反旗を翻したのであろうか。一説に、配下に敵方へ食料を売るものが出て内通の噂となり、このまま滅亡するよりはと行動を起こしたという。村重は信長に弁明しようとしたが、属将から信長が聞き入れるわけがないと諭されたともいう。ともかく、この行動は信長を苦境に追い込み、それだけに憎悪をかきたてた。やがて態勢を立て直した信長軍の猛攻にあい、頑強に抵抗して持久戦に持ち込んだ。この時、黒田官兵衛(如水)が荒木村重の謀反を改めるよう説得に有岡城に来たところ捕らわれの身となり、有岡城の牢屋で幽閉された話は有名である。
10ヶ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。多くの女子供を含めた荒木一族は磔にされ、刺し殺され、射殺され、そして焼き殺された。
天正8年(1580)池田之助が城主となるが、同11(1583)年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。
明治26年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。昭和50年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
『参照:現地説明板、日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)』
現況・登城記・感想等
有岡城の大半は、JR伊丹駅の工事のにより削り取られてしまった。またJR伊丹駅のすぐ前にある本丸跡も道路によって分断されてはいるものの一部が残っていた。よくぞ、こんな街のど真ん中に一部とは云え残っていてくれたものである。堀跡もはっきり分かるし、石垣や土塁までもが一部残っていた。嬉しいかぎりである。
荒木村重が止むを得ず信長に反旗を翻し、そして説得に赴いた黒田官兵衛が幽閉されていた城として有名である。尤も、その牢屋の場所等は今では知る由もないが、そこまで贅沢を言う気はない。荒木村重の苦悩や黒田官兵衛の苦痛を考え、その時代に想いを馳せることが出来る丘が残っていてくれただけでも幸いと思うことにしよう。
(2006/10/14登城して)
ギャラリー
伊丹有岡城城域(現地説明板より)
伊丹有岡城址公園の図(現地説明板より)
JR駅前にある伊丹有岡城址の石碑
写真奥に見える道路で本丸跡が分断されている。
本丸西側の空堀跡
堀の形がはっきり残っている。
本丸への登城口
道路で分断されたため造られた登り口。
本丸跡
手前に建物の礎石、奥に石垣の一部、左が土塁
本丸跡に僅かに残る石垣
建物の礎石と井戸跡(井戸跡は石垣横にもある)
本丸西側の土塁
道路に分断された本丸
本丸南西部の土塁と空堀跡