笠置寺の本尊仏「弥勒大磨崖仏」
倒幕計画に失敗した後醍醐天皇が行在所を設置し籠城
別名
笠置山城
所在地
京都府相楽郡笠置町笠置寺
形状
山城(標高290m)
現状・遺構等
現状:笠置寺
遺構等:曲輪、物見岩、貝吹岩曲輪など多数の削平地や腰曲輪、行在所跡
【国指定史跡】
指定日:昭和7年4月19日
指定理由:笠置寺などのある笠置山の歴史的意義と、その景観および木津川の渓谷美による
面積:2,000㎡
資料館:なし
満足度
★★☆☆☆
訪城日
1997/08/03
2009/05/08
歴史等
元弘元年(1331)後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐計画をたてたが、計画の漏洩を知ると、天皇は鷲峰山金胎寺に入り、
金胎寺から呼応する南部勢力に近い笠置山を城郭に選んで籠城した。
僧兵、武士、農民ら5千の兵が笠置山に集結、櫓が上げられ、塀には狭間を開き、要所に木戸を設けた。
城郭史上初めて山岳寺院が山城として登場した。
7万余の幕府軍が押し寄せた。善戦したが、奇襲をかけられついに落城した。
『日本城郭大辞典(新人物往来社刊)より』
現況・登城記・感想等
山上まで道が通っているものの、車がやっと通れるだけの急な坂道で、しかも谷側にはガードレールもなく、すれ違う時には大変だった。
二度と、この道を車では来たくない。
笠置城は天然の要害を利用した城で、元々、正式な築城がされている訳ではないので、遺構も当然大したものは残っていないが、
磨崖仏をはじめとする巨岩群は圧倒されるほどだ。磨崖仏という芸術も素晴らしいと思うが、それ以上に、これだけ多くの巨岩が、
こんな急峻な山の、しかも山頂にごろごろと転がっているのには・・・。
山頂近くにある貝吹岩からの眺望は素晴らしいが、はるか眼下に川や道路が見え、吸い込まれるような感じで恐いほどであった。
幕府軍もここに押し寄せるのは大変だったろうなと、幕府軍の兵に同情してしまう。書物等を読んで、後醍醐天皇というのは、
自分のことしか全く考えない本当に身勝手な嫌な人間(天皇は人間ではない?)だと思っていたが、
隠岐から逃れてきて拠ったという鳥取県にある船上山もそうであるが、
「自分だけは簡単に攻められない安全な所に身を寄せて・・・」という、今までの実感を更に強めた。
(1997/08/03登城して)
久々に笠置城へ行った。前回、山上までの強烈な道でのすれ違いに懲りて、2度と行きたくないと思っていたが、同行のTさんが、
行ったことがないそうで、しかも京都での会食時間までたっぷり時間があり、平日なので車とすれ違うこともないだろうということで・・・。
幸い、すれ違うことはなかったが、それでもカーブの多い細い急坂道は充分スリルがあった。
(2009/05/08登城して)
ギャラリー
笠置山遠景
薬師石
笠置寺から歩き始めると、早速デッカイ岩が現れる。薬師石である。
㊧弥勒大磨崖仏(高さ20m)、 ㊨虚空蔵磨崖仏(高さ15m)
次に、左上に正月堂を見ながら進むとまたまた巨岩が・・・。
㊧弥勒大磨崖仏である。笠置寺の本尊仏であり、高さ20m、幅15mの石面に弥勒如来が彫刻されていたが、
前に建てられていた禮堂が3度の火災により焼亡、その都度、石面も火にかかり仏像も摩滅してしまったという。奈良時代、東大寺の良弁・
実忠両和尚の指導のもと、大陸から渡来してきた人々によって彫刻されたようである。
㊨さらに進むと、またまた彫刻された巨岩が現れる。虚空蔵磨崖仏である。この岩も高さ15mと巨大である。寺伝では、弘仁年間
(810~824)に弘法大師が、この岩に登り求間持法を修し、一夜にして彫刻せし虚空蔵菩薩といわれる。実際には、彫刻様式から、
奈良時代の渡来人の作と考えられる。
胎内くぐり
笠置山修行場の入口にある。行場入りする前に滝で身を清めるのが普通であるが、当山は滝がないため、
この岩をくぐり抜けることにより身を清めたという。
ゆるぎ石
元弘元年(1331)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府から奇襲を受けた所である。この石は、
奇襲に備えるため運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり、人の力で動くため「ゆるぎ石」と言われている。写真左側は急崖である。
山頂近くの巨岩「平等石」 ~1997年8月3日に撮ったもの~
平等石の上からの眺望
平等石の上からの眺望は素晴らしいが、はるか眼下に川の流れや道路が見え、
吸い込まれるような感じで恐いほどである。。
蟻の戸わたり
平等石の下に「蟻の戸わたり」というのがあり、ここを通って進む。T谷さんの小さな体でさえも窮屈そうだ。
二の丸跡
笠置城は、後醍醐天皇の仮皇居で正式な築城はされなかったが、室町時代以降、
山頂の行在所跡を本丸とみたてたのか、一段下のこの削平地を二の丸跡と呼ぶようになったとのことである。
貝吹き岩曲輪
さらに進むと、出丸のような曲輪跡があり、貝吹き岩(右側に隠れている)がある。
貝吹き岩
元弘の戦い(1331)の折、勤皇軍の武士の士気を高めるため、この岩の上より、
さかんにほら貝が吹かれたという。また、修験者もこの岩の上でほら貝を吹いたといわれる。
行在所
山頂には行在所跡がある。何も残ってないのに門扉で閉ざされている。