山城 聚楽第(京都市)

大宮中立売通に立つ石碑

関白秀吉が天下に権力を誇示するために建てられた

別名

聚楽城

所在地

京都市上京区一条堀川~千本丸太町辺り

形状

平城

現状・遺構等

現状:市街地
遺構等:梅雨の井?、石碑、説明板

満足度

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歴史等

天正13年(1585)、秀吉は関白に就任、その地位にふさわしい城として聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)が築かれた。同時に、秀吉は御所を意識しながら聚楽第を中心とする城下町化を進めた。
大坂城と並行して進められ、役夫は10万人をしのぐと推定されている。
築城の契機は、小牧・長久手の戦いの後、秀吉政権が成立したことにあるが、作事は諸大名に割り当てられ、天正14年(1586)6月には、四国や東国から用材が運搬され、翌15年正月には城郭工事を終え、築庭にかかっている。
秀吉は九州征討終了後の同15年9月に新第に移り、翌16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いで、その権力を天下に誇示した。
その後、聚楽第は、養子豊臣秀次に与えられたが、文禄4年(1595)7月、城主秀次が高野山に幽せられ、ついで自殺させられたことにより破却され、建築中の伏見城へ大半が移築された。
『「日本城郭大系11」、「歴史と旅。日本城郭総覧(秋田書店刊)他参照』

現況・登城記・感想等

聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)は上京区の西寄り、内野の地に位置する。
勿論、市街地の中に埋もれてしまっているが、市街のあちこちに石碑が建てられている。
尚、長年、「梅雨の井」が、聚楽第の唯一の遺構とされてきたが、その可能性は極めて低いようだ。
(1995年)

2012年10月5日の朝日新聞夕刊に、「聚楽第の内堀の石垣」が見つかったという記事が載った。
石の大きさは直径70cm~1mほどで、2~3段に積まれた石が11個見つかり、石垣の組み方はダイナミックなものだという。予想通り、聚楽第が壮大なものであったことが窺いしれるものなのでしょう。
聚楽第の遺構は、「幻の聚楽第」で、長年、「梅雨の井」が、聚楽第の唯一の遺構とされ、その「梅雨の井」さえも、最近では、遺構の可能性は極めて低いといわれていたのだ。まさにビッグニュースだ。
(2012/10/06)

ギャラリー

梅雨の井
大宮下長者町上がるの西側にある路地を入ったところに「豊臣秀吉が茶の湯の折に愛用した名水」という伝承がある梅雨の井がある。長年、聚楽第の現存する唯一の遺構として扱われ、多くの人が訪れた。井戸がある地点での発掘調査は行われていないが、近年の発掘調査に基づく聚楽第城郭推測範囲によると井戸のある場所は本丸南堀の中に含まれていると推測される。そのため、行政が出す出版物から梅雨の井の記述がなくなった。(サイト聚楽第豊臣家の夢の跡より)

中立売大宮通りに立つ石碑
TOP写真と同じ石碑である。2009年5月に建立された石碑である。碑文は「聚楽第址」、「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」とある。この石碑がある通りを挟んで向かいの西陣ハローワークの建替工事に伴う発掘調査により聚楽第東堀跡の遺構が検出され、大量の金箔瓦(重要文化財)が出土した。石碑がある地点は聚楽第東堀の中に含まれる。

正親小学校傍に立つ石碑と説明板
大正時代に正親学区の有志の方の寄付で建立された。最新の発掘調査に基づく聚楽第推定範囲でこの場所は聚楽第本丸西堀にあたるので写真の右側に「此附近聚楽第本丸西濠跡」の説明板が2008年6月に設置された。

【発見された内堀の石垣】 (2012/10/05朝日新聞夕刊より)
聚楽第1

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