主郭部東側の堀を南東部堀底から撮影
蒲生氏初期の頃の本城、一族内紛で破却後、中野城へ移る
別名
日野城、智甘城
所在地
滋賀県蒲生郡日野町音羽
【アクセス】
ナビで日野町音羽を選択したら、音羽城跡が出てきたのでナビに従って行ったが、その道は説明が出来ません。
城跡は公園になっており、地元の人なら誰でも知ってるようですので、分からない場合は、地元の方に尋ねることをお薦めします。スミマセン(汗)。
尚、公園上には2~3台ほど駐車可能。
形状
山城(標高49m)
現状・遺構等
現状:公園
遺構等:曲輪、土塁、空堀、虎口、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/11/27
歴史等
室町時代末、現在の日野町の南部過半を本領としていた蒲生氏は、周辺集落に一族を配置し、領国経営を行なう一方、大永年間(1521~28)までは幕府と六角氏の双方へ出仕していたようだ。その頃、本城であったのが音羽城であるとされる。
その創建については諸説あるが、応仁の乱(1467)直後に築城されたと考えられている。
明応5年(1496)と文亀3年(1503)の両度の合戦に大勝し城主蒲生貞秀の名を高めた。
しかし、貞秀の没後の大永2年(1522)から翌3年(1523)にかけて、貞秀の子高郷と孫秀紀の間で一族の内紛が起きることとなった。この争いでは、若き当主秀紀を中心とする500の兵が8ヶ月に及ぶ籠城をするという悲惨な戦いの末、大永3年(1523)3月8日開城し、直ちに寄せ手高郷の援軍六角勢によって城は取り壊された。
以後、秀紀は鎌掛城に、高郷は中野城に移り、音羽城は廃城となった。
ちなみに、蒲生氏郷は音羽城を落城させた高郷の曾孫にあたる。
『「現地説明板3箇所」、「近江の山城ベスト50を歩く・中井均著(サンライズ出版刊)」参照』
現況・登城記・感想等
蒲生氏郷のファンである私としては見落とせない城跡の一つだ。
城跡は、明治時代後期の公園整備や、昭和期の未墾地開拓等々で大きく人手が加えられたというので、あまり期待していなかったが、主郭部周囲を取り囲む堀や出曲輪・井戸等々の遺構がかなり良好に残り、中世の山城の風情を残している。
特に、主郭部南東の堀底に降りて眺める東側と南側の堀の光景が気に入った。
また、公園への入口も、如何にも城跡の雰囲気がある。
(2010/11/27登城して)
ギャラリー
音羽城跡略図(現地説明板より)
公園入口
音羽城跡は公園となっているが、公園入口で既に城跡の雰囲気がある。写真左側の土塁など、櫓が建てられていたとしても不思議ではない感じだ。
石碑
車で登り切った所には、左写真の石碑が立ち、公園へ入ってすぐ左手には説明が記された右写真の碑が立っている。
主郭部
往時は、頂部のこの主郭部は、北部分に本丸・二の丸、南部分に南丸があったようだが、今では、その区分は全く分からず、僅かに南丸跡の南側に土塁と南東部に井戸跡が残るだけである。そして、二の丸跡付近は児童用の遊具場になっている。
主郭部南丸の南側の土塁
この土塁は、南丸と帯曲輪を区切る土塁だったようで、虎口?も。
井戸跡
音羽城が堅固な城と評された理由の一つに、この素掘りの井戸がある。深さ8.7m、径2mの水源は篭城戦には欠かすことの出来ない城の生命であった。大永3年(1523)8ヶ月の籠城後に落城する前夜、城主秀紀の奥方が投身自決をしたという伝説もあり、お方の井戸とも呼ばれている。また、南側に発見された抜け穴に通じているとも言われている。
北出曲輪(馬出曲輪?)
主郭部の南東には出曲輪があり、その南側の空堀などは形がよく残っている。
主郭北側の堀
主郭東側の堀
東側の深く掘られた堀は、藪も少なくて、迫力があり、見応え充分だ。
主郭南側の堀
主郭部南側の帯曲輪から堀越しに南出曲輪方面を望む
堀の向こうに見えるのは南出曲輪。帯曲輪から階段で南堀へ下りて南出曲輪へ行ける。南堀も、この辺りが最も広いようだ。
主郭部南東角の堀
南出曲輪から主郭部南東角を見た光景である。右奥へ東堀が、左へ南堀が延びるこの光景はなかなかのものだ。
南出曲輪のさらに南側の堀
持っていた縄張図では気が付かなかったのだが、南出曲輪を奥へと行くと、さらに深い空堀を発見した。その向こうにも曲輪があるようで、公園通路も出来ている。この空堀も、見応え充分で、何か得したような気分になった(^^)