城跡に建つ西方寺
南朝方の戒重(西村)氏の築いた6城の中の本城、江戸期には織田有楽斉の陣屋に
別名
戒重陣屋(江戸時代)
所在地
奈良県桜井市戒重、春日神社・西方寺周辺
西方寺:桜井市大字戒重234、電話0744-42-3532
形状
平城、陣屋(江戸時代)
現状・遺構等
現状:市街地(西方寺、春日神社など)
遺構等:なし
満足度
-----
訪城日
2010/12/01
歴史等
戒重城(かいじゅうじょう)は、南朝方で活躍した戒重(西村)西阿の築いた6城の中の本城である。
暦応4年・興国2年(1341)の攻防戦を伝える軍忠状によると、4周を堀が囲み、少なくとも南・東の2辺の内側には塗塀をめぐらし、
塀に接して高櫓を設けていたという。
西阿の子孫と思われる戒重氏は、至徳元年・元中元年(1384)の「長川流鏑馬日記」にも名前が出てくる人で、越智方に属した。
戦国時代にも、戒重氏とその居城の名が知られ、天正8年(1580)の指出しでは所領の高が1,500石であった。この指出しの直後、
戒重氏は岡・大仏供・高田氏と共に誅伐され、明智光秀が戒重城を接収した。
元和4年(1618)に、織田有楽斉長益が入部して、旧城を陣屋(戒重陣屋)に改めた。
延享2年(1745)の頼宣の時に芝村陣屋に移った。
『日本城郭大系10(新人物往来社刊)より』
現況・登城記・感想等
戒重城(かいじゅうじょう)は、春日神社や西方寺周辺にあったというが、今では市街地に埋もれ全く何も残っていないようだ。
訪れた時に、丁度、西方寺の方に会ったので、遺構の一部、或いは碑や説明板の類いはないか尋ねたが、何もないとういうことだった(苦笑)。
(2010/12/01訪れて)
コメント
西村 良弘(2011/09/01)
私は茨城県在住ですが、戸籍を調べたら、私のご先祖様は明治初期まで織田村にいたようです。 西村氏を検索していてこのページにたどり着きました。戒重氏はもともと高階とか高宮というHPは見たことがあるのですが、このHPでの記述は「戒重氏はもともと西村氏である」ということなのでしょうか?
タクジロー(2011/09/01)
西村 良弘 さま
ご訪問とコメントをありがとうございます。
日本城郭大系には、戒重城は戒重(西村)西阿が築いたとあります。
勿論、高師直に代表される高氏が、高階氏から出ているように、この戒重(西村)氏も高階氏の一族かもしれませんが、それについては知りません。
また、堀尾吉晴も高階氏の末裔とされるようなので、かなり多くの姓に分かれているとは考えられると思いますが・・・。
私の知り合いに、堀尾吉晴の子孫という方がいますが、堀尾氏と戒重(西村)氏が同族だという話は聞いたことがありませんが。
西村 良弘(2011/09/20)
お返事ありがとうございました。桜井市周辺には西村と言う家が非常に多く(織田村も近いです)、日本姓名辞典に寛政系譜の西村氏についての記述として、「藤原姓ー先祖は光岡を称し、中世 大和国式上郡西村より起こると云う。家紋 丸に鷹羽打違、牡丹。寛政系譜に「幸右衛門 景武-左太郎 武邦」等見ゆ。 」とあるそうです。
ご解説を戒重氏も西村氏の一派であるように読んでしまったので、桜井市周辺の西村は戒重氏の生き残りなのかしらと思い、前メールのような質問をしたしだいです。スミマセン
タクジロー(2011/09/21)
逆に、いろいろ教えて戴きありがとうございます。
今後とも宜しくお願いします。
ひろぼう(2015/02/24)
子どもの頃に戒重に住んでました。
西方寺から北東の寺川の対岸に竹薮が広がってました。そのあたりが土塁で、もう少し東に一本松が立ってました。戒重城の庭にあった松だと教わりました。よく凧遊びで、目標にしてましたが、雷で焼失してしまいました。
地形的にいっても川に囲まれたその辺りのような気がしますが…
タクジロー(2015/03/08)
ひろぼう様
返事が遅くなり申し訳ありません。
当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
土塁や松が残っていたりいいのに・・・。
またのご訪問とコメントをお待ちしています。