石見 津和野城(津和野町)

本丸・二の丸跡の石垣群

小京都津和野の城の剛直かつ峻烈な石垣は、坂崎出羽守の意地を反映か

別名

三本松城、蕗城

所在地

島根県鹿足郡津和野町後田

形状

山城(標高:367m比高:212m)

現状・遺構等

現状:山林、山麓の藩庁は高校敷地
遺構等:本丸・人質曲輪・天守台・太鼓丸・二の丸・腰曲輪・三の丸の各曲輪の石垣、堀切、物見他門櫓(嘉楽園に移築)、市内殿町に家老多胡邸の表門と番所、藩校養老館の長屋と書庫、山麓の藩庁が高校敷地となり一隅に馬場先櫓が復元

満足度

★★★★★

訪城日

1995/08/11
2003/10/31

歴史等

津和野の地名は、ひなびた雅趣のあるツワブキが生い茂る山里に由来するといわれ、別名を蕗城と称する津和野城は,標高367メートルの霊亀山上にそびえる山城である。
初め一本松城といい、のち三本松城と改めた。城は鎌倉時代の元冠の役に海岸防備の功労があった吉見頼行が永仁3年(1295)に始まり、2代・頼直の正中元年(1325)に完成したと伝えられる。吉見氏はこの地で14代続いたが、第14代・広行は関ヶ原の戦いに主家・毛利輝元に従い敗北し、長州へ移った。
替わって翌慶長6年(1601))、坂崎出羽守直盛が3万石で入封、城を大改修した。坂崎といえば出羽守。大坂の陣で徳川家康の孫を救出した功で、1万石を加増されたが「*千姫事件」を起こし改易となった。
あとへは元和3年(1617)因幡鹿野城から亀井政矩が入封し、山麓に居館を設けた。亀井氏在城は250年で、第11代茲監(これみ)が明治を迎え廃城となり、明治7年(1874)に建物はことごとく解体された。
山上に蜿々と築いた石垣は、出羽守の意地を反映するかのように凄まじいまでに剛直かつ峻烈である。ことに東門跡から見る石垣は、塁々と重なり、本丸址の三十間台を最高所として一段低い天守台を中心に、北へ二の丸・太鼓丸、東と西へそれぞれ三の丸を張り出している。さらに北方に出丸の織部丸を構え、広く複雑な縄張りは、出羽守の面目また躍如といえよう。しかし、在城わずか16年で自ら破滅。その怨念が今日まで石垣を支えてきたのであろうか。
『「現地案内板」、「日本100の城(日本交通公社刊)」参照』

【千姫事件】
関ケ原の戦いの戦功により、慶長6年(1601)津和野城主となった武将坂崎出羽守直盛。元和元年(1615)大坂夏の陣の折、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出した。しかし、直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、元和2年(1616)美男の本多忠刻と結婚することになった。(千姫が「秀頼が死んで間もないのに再婚する位なら髪を落し、仏門に入る」と直盛にその意志のないことを告げたが、直盛の知らぬ間に本多忠刻との再婚が決まったとういう説もある。)
この時、面目を潰された坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害し(もしくは家臣により殺害)、坂崎家は改易処分となったというもの。
直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が疑わしいとされている。

現況・登城記・感想等

世に「小京都」といわれる市町は、「全国京都会議加盟都市」だけでも53ヶ所、それ以外も含めると60ヶ所をくだらないようである。その中でも、「津和野」は女性に非常に人気のある所である。
津和野の町並みは確かに昔を偲ばせる風情のある町ではあるが、ただ、その家々の屋根のほとんどが、「赤い艶のある石州瓦」であるのが妙に違和感を感じた。私の勝手な思い込みかもしれないが、私には京都を代表とする古い町並みの家の屋根は、くすんだねずみ色であり、「赤い石州瓦」は、あまりにもハイカラで近代的な感じがしてならない。
それはともかく、目指す「津和野城」である。赤い鳥居がいっぱい立ち並ぶ「太鼓稲荷神社」の近くから、リフトでほぼ山頂まで登り、そこから歩いて本丸(三十間台と称される郭が本丸にあたると思われる)まではすぐである。ところどころに石垣が崩れながらも、かなり残っている。
本丸から眼下に見下ろす津和野の町並みも赤い屋根が気になるものの、実に素晴らしい。まさに絵になる景色である。特に、2回目の登城は、紅葉も始まり実に素晴らしかった。
この城は城址そのものも悪くはないが、津和野の町並みと、城址からの眺望が本当に素晴らしい。

ギャラリー

㊧津和野藩家老・多胡家表門(屋根に白鷺?が)、㊨津和野城下の掘割に泳ぐ鯉

東門跡 
東門

登城道
上に見えるのは、天守台・二の丸の石垣群

天守台・二の丸・三十間台跡の石垣群 
石垣群

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太鼓丸跡
太鼓丸

三十間台虎口
三十間台虎口

三十間台跡
ここが城内で最も高い場所になる。
三十間台

三十間台から人質櫓跡と三の丸を
三十間台から三の丸を

三十間台跡からの津和野市街地の眺望 ~クリックにて拡大画面に~

天守台跡
天守が本丸でなく、二の丸部分に築かれている珍しい城である。 
天守台上 

津和野城址遠景
中央頂上やや左にかすかに角張った石垣が見える。

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コメント

戦国山城大好き(2013/03/16)

雨の中、傘も指さずに登城しました
誰も居てなかった(T-T)
地元のマラソン大会が雨降りの中行われてました
本丸に行く途中の石段でこけちゃいました(゜ロ゜)
津和野城跡あんな立派な石垣があるのに
もったいない

タクジロー(2013/03/19)

戦国山城大好き様
津和野城は、本当に素晴らしいですね。
私は、2度、登城しましたが、また訪れたいと思っております。

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