備前 乙子城(岡山市)

宇喜多直家「国とりはじまりの地」の石碑と乙子城全景

戦国三大悪人?宇喜多直家が「国とり第一歩」を踏み出した城

読み方

おとごじょう

所在地

岡山県岡山市東区乙子
【アクセス】
吉井川を県道397号(岡山ブルーライン)で「西大寺大橋」を東へ渡り、500m先を右折します。1km程南下した左手の方に見える小山が城跡です。登城口は、幾つもありますが、私は城跡(山)の北西の大国主神側から登りました。車は登城口の近くに駐車スペースがありますが、そこから左(東)へ廻ったところにも駐車場があり登城口もあります。

所要時間

駐車場所から1分本丸跡まで4~5分。
今回は、北西の大国主神側から登り、東側の墓地の方へ下りて行ってから山を廻って駐車場所に戻ったので、小規模な割に20分掛かりました。

形状

山城(標高47.8m、比高47.8m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁?、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2013/11/22

歴史等

乙子城は、宇喜多直家が天文13年(1544)に構えた悌郭式山城で、のちに備前国を平定し戦国大名に成長した直家が、城主としての第一歩を踏み出した記念すべき城である。
乙子城は、児島湾と邑久郡千町平野それに上道郡南東部を一望でき、臨界性の戦術拠点であった。
宇喜多直家は、宇喜多興家の嫡子として生まれたが、天文3年(1534)、祖父能家が砥石城にて、高取山城の島村豊後守(後の貫阿弥)の奇襲にあって自害し、このとき難を逃れた興家、直家父子は、備前福岡の豪商阿部善定の元へ身を寄せた。
その後、天文12年(1543)に浦上宗景の家臣となり、赤松晴政の軍と播磨で戦い殊勲をたて、この戦功と祖父の能家の旧功によって、翌天文13年(1544)宗景の命によりこの地に城砦を構え、足軽30人と300貫の領地を与えられ、弱冠16歳で乙子城主となった。
直家はここに5年間在城し、この地の治安維持と戦功を挙げ、その恩賞に新庄山城(岡山市竹原)を与えられ、天文18年(1549)に移転した。
その後、乙子城は持城として、弟の浮田忠家を城主に置いていたが、永録2年(1559)直家が沼城に移り、備前平定が進むにつれその存在価値が薄らぎ廃城にされたものであろう。
『「現地説明板」、「日本城郭大系13」参照』

現況・登城記・感想等

備前と美作は、宇喜多直家が大暴れ(大活躍)?したところです。
宇喜多直家といえば、小瀬甫庵が『太閤記』で、斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人としており、また出雲の尼子経久・安芸の毛利元就と共に中国地方の三大謀将と言われるようで、なかなか興味深い人物です。
乙子城は、直家が弱冠16歳で宇喜多家を再興し、初めて与えられた城ですので、大した城址ではないのは知っていましたが、以前から訪れたいと思っていました。
戦国時代の三悪人の一人とされる直家ですが、勿論、地元では英雄なのでしょう。乙子城の山麓には、どでかい石碑が建てられ、そこには大きな字で『宇喜多直家国とりはじまりの地」と刻まれています。
乙子城は、想像していた以上に、こじんまりとした山城で、遺構も不明瞭で、説明板には土塁の痕跡が残るとありましたが、確認できす、本丸と腰曲輪くらいしか分かりませんでした(/。ヽ)。
しかも、城の東側は段曲輪のようになっていますが、墓地による改変が著しく、どこまでが往時のものか分からなくなってしまっています。
ただ、周囲は急峻で、小さいながらも、それなりに要害堅固な城であるのはよく分かりました。
(2013/11/22登城して)

ギャラリー

乙子城跡遠景
吉井川を県道397号(岡山ブルーライン)で「西大寺大橋」を東へ渡り、500m先を右折します。1km程南下した左手(南東)の方に見えるお椀型の小山が城跡です。
乙子城遠景

本丸跡
本丸は、不整形であまり広くなく、長軸30mほどです。
乙子城本丸

腰曲輪
本丸のすぐ下には、腰曲輪が確認できる。段曲輪になっているようだが、墓地等となり改変が著しく往時のものとの区別がつきません。
乙子城腰曲輪

城跡周囲斜面
周囲は急峻で、とてもよじ登れそうにもなく、小さいながらも、それなりに要害堅固な城であるのはよく分かります。
乙子城急崖

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