備前 岡山城(岡山市)

復元された天守

宇喜多秀家により大修築、関が原合戦後に小早川秀秋が入るも無嗣断絶

別名

烏城(うじょう)、金烏城

所在地

岡山県岡山市丸の内

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 烏城公園
【遺構等】 復元天守(5層6階)、現存櫓2基(月見櫓、西手櫓)、復元城門3基(不明門、六十一雁木上門、廊下門)、曲輪、石垣、宇喜多秀家時代の石垣、穴蔵、井戸、水堀、表書院復元表示、石碑、説明板、遺構案内板等

満足度

★★★★★

訪城日

1996/08/17
2013/11/22

歴史等

正平年間(1346~69)、上神高直の創築といわれる。かつての岡山城の場所は、現在の本丸から西へ300mほどの高台(石山)にあった。
元亀元年(1570)宇喜多直家は石山城主・金光宗高を謀殺し、天正元年(1573)石山城を修築し、亀山城(岡山市沼)から移ってきた。石山を中心に2~3の小曲輪を配し、 西北部の三の曲輪北部に2つの曲輪、その東南部に新しい曲輪を設けたという。
その子・秀家は天正18年(1590)から慶長2年(1597)にかけて城を大改修した。城域は大幅に拡張され、 石山の東の岡山に新本丸を設け、天守を築造し岡山城と改称した。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、宇喜多家は改易され、代わって小早川秀秋が入封したが、同7年(1602)無嗣断絶となった。
翌8年(1603)、姫路城主・ 池田輝政の子の池田忠継が就封した。幼少のため兄の利隆が後見となり、西の丸帯曲輪を増修築した。元和元年(1615)忠継が病死し、弟の忠雄が襲封した。寛永9年(1632)忠雄が没し、長子の光仲(三歳)が家督を継いだが、幼少のため鳥取城主・池田光政と領地替えとなり、以後池田氏が10代237年在城し明治を迎えた。
天守は、昭和6年に国宝に指定されたが、第二次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の空襲で焼失し、今は現存建築物は月見櫓を残すだけとなった。
昭和41年(1966)に、天守、不明門、廊下門、六十一雁木上門、周囲の塀などが復元された。鉄筋コンクリート造りではあるが、外観は旧来の通り復元されている。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」、「現地説明板」、「パンフレット」参照』

現況・登城記・感想等

多くの書物によると、岡山城は姫路の白亜の白鷺城に対して、烏城(うじょう)と称せられ美しさを競ったとある。
確かに美しい城ではあるとは思うが、真っ黒な板壁といい、烏が羽を広げたような形(確かに烏城である)といい、何とも奇妙な感じがしないでもない。尤も、決して嫌いではなく、非常に好きな城の一つで、印象深い城である。
また、旭川の向こう岸にある「後楽園」も素晴らしい庭園であり、私は日本三大庭園の中でも一番好きである。またこの公園から見える城も素晴らしい。
(1996/08/17登城して)

岡山へは何度も来ているが、岡山城を訪れるのは久し振りです。
久し振りに見た天守は、以前見た時は、もっと黒かったような気がするのですが、少し色が褪せたような気が・・・? 気のせいでしょうか?
(2013/11/22登城して)

ギャラリー

岡山城本丸縄張略図(現地説明板より)
岡山城縄張図

岡山城本丸内旧楼櫓(パンフレットより)
岡山城本丸縄張略図 岡山城本丸楼櫓

本丸内堀
岡山城の堀は、本丸と二の丸を囲む二重の内堀、その西外側の城下町を内外に分ける中堀、さらには外堀(二十日堀)と、城域を堀割りで多角的に区画していたが、廃城後の市街地整備で多くの堀割りが埋められ、今は本丸の内堀を残すだけです。
水堀

大手門へ(さあ登城です)
大手門へ

大手門(内下馬門)枡形
ここには、高麗門と渡櫓門が建てられた枡形虎口であった。
大手門枡形

大手門(内下馬門)の石垣
岡山城の建設当時は、大名が勢威を誇る目的で、石垣に巨石を集めて築くことが流行しており、岡山城は、この大手門周辺に多く使われている。その中でも、最大の石は、高さ4.1m、幅3.4mある。但し、厚みはなく、板石を立てたものです。関ヶ原合戦直後に池田氏が築いたものと考えられる。
内下馬門石垣

大納戸櫓下石垣
関ヶ原合戦後に小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修したとみられる石垣で、加工をあまりしていない自然石を用いているが、上部ほど傾斜が強くなる特徴を持っている。上に建っていた大納戸櫓は、本丸大手を守る要となる櫓であり、南北20m、東西10mの3層4階の雄大なもので、城内最大の櫓であった。 
大納戸櫓石垣

本丸南面の石垣
大手門から入城し、大納戸櫓下の石垣を右(東)へ進み鉄門へと向かいます。
鉄門へ向かう

鉄門跡
鉄門(くろがねもん)は、下段から表書院へ通じる櫓門で、木部の全面を鉄で覆った厳めしい門であった。
鉄門跡

中の段(表書院跡)
鉄門跡の石段を登ると、表書院へ出ます。岡山城の本丸は、東側の天守閣の建つ最上段の本段、その西側に一段下がった中の段、 この両段を南側から西側に取り囲む平地の下段の三段構えとなっていています。本段が城主(藩主)の生活の場(勝手方)で、中の段は城主の御座所と藩政を行う表書院が建ち並ぶ政庁の場(公事方)でした。現在、中の段には、多数の部屋や茶室や台所・土間・板の間・廊下などの間取りが復元整備されています。
写真奥の櫓は月見櫓で、右柵の下には宇喜多氏時代の石垣があります。

表書院復元表示と月見櫓

宇喜多氏時代の石垣
中の段には、柵の下に宇喜多秀家が築城した時の石垣の一部があります。平成4年度からの中の段の発掘調査で発見されたのでしょうね。 
宇喜多時代の石垣

廊下門
中の段の北東部には、1966年に復元再建された廊下門が建てられています。本丸の搦手にある城門で、門扉の上に敵えお迎え撃つ部屋がある櫓門です。部屋は、本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用され、廊下門と呼ばれていた。

廊下門1

廊下門と天守
廊下門から下段へ出て撮ったもので、写真手前を右へ行くと月見櫓下です。
廊下門と天守

月見櫓
月見櫓は、北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されている。構造は、一部地下付きの塗籠造り、本瓦葺き二階建です。 
月見櫓

不明門(あかずのもん)
中の段に戻り、不明門をくぐって本段へ向かいます。不明門は、表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ登る石段の入口に設けた渡櫓門です。天守のある本段全体を固めた大型の城門であるが、平素の出入りには、北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから「不明門(あかずのもん)」と呼ばれた。明治の廃城後取り壊されたが、昭和41年(1966)鉄筋コンクリートで再建された。
不明門

本段への石段
IMG_4824

本段
石段を登り、左へ向かう、正面に天守、右手前には天守の礎石、その前には復元再建された六十一雁木上門が見えます。
IMG_4825

天守礎石
天守は昭和20年6月、繊細で焼失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため、礎石のみ移して元の通り配置している。
天守礎石

六十一雁木上門
本段から川手に通じる石段の上にある門で、段が61段あったことからこう呼ばれている。
六十一雁木上門

天守
宇喜多秀家が築いた3層6階の望楼形天守閣で、城郭建築物に天守が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。
17年ぶりの登城ですが、前回より、色が褪せたような気がするのですが、単なる気のせいでしょうか? 一段下の、前回撮った写真と較べてどうでしょうか? それとも、カメラのせいでしょうか?
天守

天守(1996年8月17日撮影)
岡山城天守2

天守最上階からの眺望(後楽園方面を)
天守上から

【後楽園&岡山城】 (1996/08/17撮影)
後楽園1

後楽園3

後楽園2

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