備前 亀山城(岡山市)

本丸跡に立つ「直家飛躍の地」、「亀山城跡」、「秀家生誕地」の碑

宇喜多直家飛躍の城、秀家生誕の城

別名

沼城

所在地

岡山県岡山市東区沼
【アクセス】
浮田小学校のすぐ北東の山が沼城跡です。山の南側の道を70mほど東進すると城跡(弁天神社)へ登る石段があります。駐車場はないので、城跡南側を通る道の小学校寄りの少し幅が広い所に停めました。
浮田小学校:岡山市東区沼1725、電話086-297-2017

所要時間

駐車した場所(小学校の東、道端)から本丸跡まで3~4分、見学時間は20分弱でした。

形状

沼城(山城):標高40m、比高35m

現状・遺構等

【現状】 山林、弁天神社
【遺構等】 曲輪、土塁、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2013/11/22

歴史等

亀山城の築城時期については不明確であるが、戦国時代に中山備中守信正が築城したと考えられ、天文初年(1532)頃には居城していた。
信正は初め金川城の松田氏に従っていたが、松田氏の勢力が衰えると天神山城の浦上宗景に従い、天文20年(1551)宗景の家臣で頭角を現しだした宇喜多直家の舅となった。
永禄2年(1559)、宇喜多直家は、その義父・信正を謀殺してこの城を奪い(一説によると宗景の命で行ったとも)、新庄山城から移り、当城を拠点に周辺部を次々に攻略していった。
その後、戦国大名に成長した直家は、天正元年(1573)岡山城へ移り、舎弟の浮田春家を亀山城主にした。
関ヶ原合戦にて宇喜多氏が滅亡し、宇喜多氏にかわって慶長6年(1601)春、岡山城主となった小早川秀秋は亀山城を廃城とし、亀山城天主は岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築したと伝えられる。
『「日本城郭大系13」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

亀山城は、城の本丸、二の丸のあった弁天山が亀の形に似ているところから名づけられたといい、別名「沼城」ともいいます。
亀山城は、比高35mほどのさして高い山でもなく、本丸跡に祀られた弁天神社へは石段を1~2分も登れば辿り着きます。宇喜多直家の「飛躍の城」としては、ちょっと物足りない感じで、拍子抜けです。
しかし、現在でも地図を見ると、周囲は水路や池だらけです。往時は、別名「沼城」の通り、周囲を沼に囲まれた堅固な城だったのでしょう。
縄張は、本丸を中心に周囲に腰曲輪が巡らされた輪郭式の山城であるが、往時は、谷部を隔てた東側のもう一つの小山に二の丸があり、また西側にある小学校のある辺りが西の丸であったというから連郭式山城であるとも言え、全体的には「連郭・輪郭折衷式の山城」ということになるのでしょう。
本丸は、長軸50mほどの曲輪で、北側の一段高い所に弁天神社が祭られている。当城の中心櫓(天守)が、岡山城の表書院に段の大納戸櫓に移築されたというが、ここに天守が建てられていたのであろうか? ただ、当時の城の天守台としては広すぎるような気がしないでもないが・・・。
尚、本丸周囲下には、何箇所もの腰曲輪が確認できるが、ほとんどが薮状態です。
また、二の丸のあった小山も薮状態で、入って行くのは諦めました(/。ヽ)。
(2013/11/22登城して)

ギャラリー

亀山城古図(現地本丸跡説明板より)
亀山城の縄張は、本丸を中心に周囲に腰曲輪が巡らされた輪郭式の山城であるが、往時は、谷部を隔てた東側のもう一つの小山に二の丸があり、また西側にある小学校のある辺りが西の丸であったというから連郭式山城であるとも言え、全体的には「連郭・輪郭折衷式の山城」ということになるのでしょう。
沼城古図

登城
浮田小学校の東の道路端(写真の右側)に車を停めて、さあ登城です。写真の奥に見える低い山が亀山城跡です。尚、「亀山城跡昇り口」と書かれた標柱があり、「→50m」となっていますが、80mほど先です。
IMG_4583

本丸(弁天神社)への石段
本丸跡(弁天神社)へは石段が設けられており、1~2分も登れば辿り着きます。宇喜多直家の「飛躍の城」としては、ちょっと物足りない感じで、拍子抜けします。
城跡には、直家に関係する他のほとんどの城址と同じく、宇喜多家の家紋「児文字紋」が染め抜かれた幟が立てられているが、この登り口の石段で、早速、その幟を見ます。

弁天社への石段

本丸跡
本丸は、長軸50mほどの曲輪で、北側の一段高い所(写真奥)に弁天神社が祭られ、その手前には城址碑などが立っています。
本丸跡

「直家飛躍の地」、「亀山城跡」、「秀家生誕地」の石碑
亀山城は、直家の子・秀家(後に、豊臣政権下で五大老)生誕の地とされる城でもあり、「亀山城跡の碑」と「直家飛躍の地と刻まれた石碑」が並んで立ち、その真ん中に「秀家生誕地」と刻まれた球形の石碑が置かれています。、
石碑

天守台?
当城の中心櫓(天守)が、岡山城の表書院に段の大納戸櫓に移築されたというが、ここに天守が建てられていたのであろうか? ただ、当時の城の天守台としては広すぎるような気がしないでもないが・・・
天守台

東側から本丸への虎口
本丸へ東側から登る道は、大きく廻って入るようになっていて、土塁が設けられ、如何にも城跡らしい雰囲気がある。
IMG_4605

腰曲輪
本丸周囲下には、何箇所もの腰曲輪が確認できるが、ほとんどが薮状態です。
腰曲輪

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