備前 金川城(岡山市、旧御津町)

本丸下に掘られた超大型の井戸「天守の井戸」

松田氏8代元成が築いた西備前随一の山城、宇喜多直家に攻められ落城

読み方

かながわじょう

別名

玉松城

所在地

岡山県岡山市北区御津金川
【アクセス】
登城口は2ヶ所あり、一つは、岡山市北区役所支所(御津支所)の道路向かい側から、2つ目は、支所から500m程西にある妙覚寺の西側から。
私は、支所前から登り妙覚寺横へ下山したが、妙覚寺の前に御津町郷土歴史資料館があるので、そこに駐車して登城する方が良いかも。
御津町郷土歴史資料館:岡山市北区御津金川529、TEL:0867-24-3581
営業期間 開館 : 9:00~17:00 入館は16時30分まで 休館 : 月 祝日の場合はその翌日、年末年始 料金 大人 : 大人:200円

駐車場所からの所要時間

御津支所前登城口から本丸まで約30分

形状

山城(標高225m、比高185m)

現状・遺構等

【現状】 臥龍山自然公園(山林)
【遺構等】 曲輪(本丸・二の丸・北の丸・道林寺丸・出丸ほか)、土塁、石垣、堀切、竪堀、井戸(天主の井戸・杉の木井戸・白水の井戸)、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/11/13

歴史等

臥龍山にはじめて砦が築かれたのは諸説あり、定かではないが、戦国時代初期の文明12年(1480)頃、松田氏系図第8代元成が本拠を富山から金川に移し本城としたのは確かなようである。以来、5代約90年にわたって西備前随一の山城として栄えた。
永正6年(1509)、元成の子元勝の時、三条西実隆より玉松・麗水の二書を贈られ、以後玉松城と命名した。
松田氏は、元盛、元輝と続くが、備前東部の天神山城主の浦上宗景と勢力を争い、永禄11年(1568)7月5日、宗景の被官宇喜多直家に攻められ、城主元輝と嫡子元賢は共に壮烈な戦死を遂げ7日早暁ついに落城した。
その後、宇喜多直家の弟春家が城主となったが、関ヶ原合戦後に宇喜多氏が滅亡し、小早川・池田氏と移り、岡山城主池田氏の家老日置氏が入ったが、一国一城令により廃城となった。
『「現地説明板(御津支所前登城口、本丸)」、「御津町郷土歴史資料館パンフ」他参照』

縄張り

(現地登城口のパンフより) ~画面をクリックにて拡大~
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金川城の縄張りは、臥龍山(城山)山頂に本丸を構え、南南東・北・南西に延びる尾根に曲輪を配した複合連郭式山城である。
本丸からほぼ平坦に南南東へ延びる稜線上に二の丸を置き、そこから3方に延びる支尾根上にそれぞれ曲輪を配置し、特に北東尾根上には12段に及ぶ段曲輪を、そして南東には出丸を配している。
本丸の北側尾根上には、鞍部に堀切を隔てて北の丸を置き、その先の尾根を2段構えの大堀切で断ち切っている。
本丸から南西に延びる尾根上には11段の段曲輪(道林寺丸)が配置されている。

現況・登城記・感想等

金川城は、御津金川の町の北方背後にそびえる臥龍山(城山)山頂に、総延長約1kmにわたって城郭施設が構築された山城で、戦国期の山城としては岡山県下最大級の規模を誇る。
金川は、旭川と宇甘川(うかいがわ)との合流点に形成された町で、美作国から流れる旭川の縦断河川交通路と宇甘川流路を利用して備中松山へ至る横断交通路との分岐点をなす要地であり、金川城は、旭川・宇甘川を両脇に抱え、正面に合流点の小平野を見下ろす戦略的要衝の地にある。
金川城は規模が大きいだけでなく、上部建物建築物を除く曲輪・土塁・堀切等城郭構造の全体の遺存状態も良好である。
特に、北の丸の先の尾根を断ち切る「二重堀切」と本丸下の「天守の井戸」は見応えがある。中でも、直径8m、深さ10.8mあるという「天守の井戸」は圧巻で、覗き込むと足がすくむほどだ(;´▽`A``。 高所恐怖症の人なら、座り込んでしまうかもしれない(*^_^*)。
また、当城は多くの箇所で石垣が使われていたようで、至るところに崩された石垣の石材が確認され、道林寺丸の遊歩道沿いには石垣の一部が残っていた。
尚、眺望は、二の丸からの一部を除いてよくない。
(2011/11/03登城して)

ギャラリー

【登城記】
御津支所前からの登城口
登城口は2ヶ所あるが、私は御津支所前から登城した。登城口は、御津支所から少し西へ行き、道路を挟んで反対側にある。登城口には城跡案内図板が設置されている他に、パンフレットもあったが、かなり古いものらしく虫が食っていたw(*゚o゚*)w。
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陣屋の石垣跡?
登城道をしばらく進むと、左手に石垣を確認。下山後、御津町郷土歴史資料館の管理人の方に往時のものか尋ねると「臥龍山麓御津支所辺りには、江戸時代には岡山城主池田氏の家老日置氏が金川城の麓に陣屋を構えていたので、その名残かもしれない」とのことであった。
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二の丸
登城口から九十九折れの大手道(千鳥坂)を登ること、20分程で出丸を経て二の丸に到着する。二の丸は2段構成になっている。二の丸南西部は、当城で、唯一眺望が開けている。
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杉の木井戸
本丸へ向かって行くと、左手に「杉の木井戸」があり、石積みも残っている。 
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本丸への枡形虎口
本丸への虎口は、内枡形虎口で、一ノ門と二ノ門をくぐって入るようになり、その間の枡形が確認できる。また、この辺りには石垣跡らしきものも確認できる。
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本丸
本丸跡には、東屋が建ち、城址石碑、説明板、松田主従一族の供養塔が建てられている。本丸は長さ78m×最大幅35mの長方形を基本とした曲輪である。
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城址碑と説明板
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松田主従一族供養塔
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本丸北側の土塁と東屋
本丸南北の虎口付近には土塁が残り、北側の土塁は幅が広く、櫓か何らかの建物が建っていたのだろうか?
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本丸下の「天守の井戸」へ
本丸の東下には「天守の井戸」があり、急な階段を降りて行く。井戸の外側は、土橋のように狭い通路状になり、その外側は急崖になっている。
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「天守の井戸」
「天守の井戸」は直径8m、深さ10.8mという超大型の井戸で、覗き込むと足がすくむほどだ(;´▽`A``。高所恐怖症の人なら、座り込んでしまうかもしれない(*^_^*)。これでも、歳月を経て、かなり埋まってしまっているようだ。
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本丸北側の堀切(鞍部)
本丸の北側は、鞍部を隔てて北の丸へと出る。鞍部は、さらに掘って堀切で分断していたようだ。
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北の丸へ
鞍部(堀切)を越えて、尾根の上を北の丸へ向かうと。「白水の井戸」への案内板が立っていた。。案内板に従って「白水の井戸」へ向かうと、毒蛇の1種「ヤマカガシ」がw(*゚o゚*)w。おまけに「スズメバチ」が威嚇するようにブーンブーンと唸っていた。「白水の井戸」は、ここから3段ほど下の腰曲輪にあるというが、止めた~(;>_<;)。
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北の丸
北の丸は2段構成になっているが、この辺りは、あまり整備がされていない。
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物見台?
北の丸の北側先端部には一段高い土塁があり、土塁上には建物が建てられる広さもある。物見櫓でも建っていたのだろう。
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二重堀切①
北の丸の先の尾根は二重堀切で分断しており、そのいずれも非常に良好に残っている。
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二重堀切②
外側の堀切には中央部に土橋が架かっている。
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道林寺丸
南西へ延びる尾根上には11段の段曲輪(道林寺丸)が配置されている。
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道林寺丸石垣
道林寺丸の横の遊歩道を降りて来ると、僅かではあるが石垣の一部が確認される。
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もう一つの登城口
道林寺丸横の遊歩道を降りて来ると、妙覚寺横の登城口へ出る。こちらにも城跡案内図板が設置され、パンフレットも置かれていた。こちらのパンフは新しかった(笑)。 
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難波抱節宅跡長屋門、背後の山は金川城跡(臥龍山)
さらに降りて来ると、幕末の中国地方屈指の漢方医・難波抱節宅跡の長屋門前へ出る。抱節は特に産科・外科・種痘の先覚者で、思誠堂塾をひらき、門弟は全国から千数百を数えたという。明治初年に宅跡は全て妙覚寺となったが、長屋門だけが当時の遺構を伝えている。
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妙覚寺
下山後、入った御津町郷土歴史資料館の管理人さんの話によると、「往時の金川城は、石垣が本格的に使われた山城で、妙覚寺の石垣は金川城を破却した時の石を使っているという話が伝わる。」とのことであったが、妙覚寺の石垣は完全な切り込みハギであるだけでなく、大きすぎることを考えれば、どう見ても違うとしか思えないですよネ!?
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コメント

匿名(2015/02/27)

お城の事が書かれていて楽しいです
御津地区家庭教師生徒募集中です

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