当城で誘殺された三好(粟屋)隆信の墓
三次周辺に武威を張った三吉氏の本拠の城
読み方
ひえびやまじょう
別名
畠敷本城、比海老城
所在地
広島県三次市畠敷町
【アクセス】
県道434号「畠敷」信号から700m程東進した「岩屋寺口」バス停付近を左折して北上し集落(集落内は車1台がやっと通れるほどの細い道です)へ入って行くと大きな「岩屋寺山公園案内板(下写真)」があり、道は2手に分かれますが左へ向かいます。
そこからは、「片側が崖の非常に細い九十九折れの道」を約2kmほど登って行くと展望所・公園駐車場(岩屋寺の西約50mになります)に到着し、登城口となります。
この九十九折れの道は、100~200mに1ヶ所だけ対向車がすれ違う退避箇所が設けられているだけですので大型車で登るのは止めた方が無難です(できれば軽自動車がGOOD)。
岩屋寺:三次市畠敷町2112、電話0824-62-4580
形状
山城(標高400m、比高200m)
現状・遺構等
【現状】 岩屋寺山公園(山林)
【遺構等】 曲輪、土塁、石積み、竪堀、堀切、井戸、三吉隆信墓、説明板
満足度
?????
訪城日
2013/12/02
歴史等
三吉氏は、源頼朝による藤原泰衡追討の功により、建久3年(1192)に三次の地頭職を得た佐々木秀綱が三吉氏を称したのが始まりという。しかし、承久3年(1221)の承久の変で、秀綱の子高元は敗死した。
その後、藤原兼範が三次に移り住み、その子兼定が三吉姓を名乗った。以後、三吉氏は周辺に所領を広げ、南北朝期初めの元弘の頃(1331~34)には南朝方に属し、のちに足利直冬に従った。さらに戦国期には山名氏、大内氏に従い吉田郡山城に拠った毛利氏としばしば所領を争った。
天文10年(1541)尼子氏と共に吉田郡山城の毛利氏を攻めたが敗北した。これを機会に大内氏に従い、翌11年(1542)、今度は大内氏による尼子氏の月山富田城攻めに加わったが失敗した。
天文13年(1544)、尼子氏は比叡尾山城に攻撃の手を差し向けたが、毛利元就が三吉方を援助して尼子勢を敗走させた。
天文22年(1553)、三吉氏は毛利氏に属することになった。
天正19年(1591)三吉氏は本拠を比叡尾山城から比熊山城へ移した。
『日本城郭大系13参照』
現況・登城記・感想等
比叡尾山城跡は、登城した多くの人からの評価が高く、大いに期待しての登城でした。
当日は朝からの濃霧でしたが、その内に霧も上がるだろうと思い、山麓の集落から車で登って行きましたが、この道が、片側急崖の車1台がやっと通れるほどの実に細い道で、おまけに対向車とすれ違える退避箇所が150m~200mに1ヶ所あるかないかです(;´▽`A``。対向車が来ないことを祈りながら運転して行きましたが、幸い、出逢うことはありませんでした。ホッ(*^_^*)。
ところが、登城口である展望所(駐車場)に到着しても相変わらずの濃霧で、視界は10m前後です。
折角、登って来たのですが、迷った末、登城を断念し、展望所脇の三吉隆信の立派な墓だけ撮って下山することにしました(/。ヽ)。粟屋村勝山城主三吉(粟屋)隆信は、当比叡尾山城主で甥の三吉広高により、当城で誘殺されたそうです。
勿論、下山も登りと同様、ヒヤヒヤしながら下りて来ました( ̄ー ̄;。
いつかリベンジしたいと思いますが、次回は軽自動車をレンタルすることにします(苦笑)。
尚、三好地方は、この季節、朝は毎日が濃霧のようですので、午後の登城の方が無難なようです。
(2013/12/02)
ギャラリー
展望所
細い道を登り切った処にある展望所ですが、濃霧のため景色は全く見えませんでした(/。ヽ)。
登城口
残念ながら、あまりの濃霧で登城断念しました(/。ヽ)。