周防 大内氏館(山口市)

復元された大内氏館の土塁(北面)

大内氏24代弘世が築き、義長まで9代の居館

所在地

山口県山口市大殿大路119(龍福寺)
龍福寺を中心に、その周囲一帯が館跡。龍福寺の無料駐車場有り。
龍福寺:山口市大殿大路119、083-922-1009

形状

現状・遺構等

【現状】 龍福寺ほか(国指定史跡)
【遺構等】 復元(土塁、堀、西門、池泉庭園、枯山水庭園)、石組み溝、石組み井戸、石碑、説明板、遺構説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2012/11/18

歴史等

大内氏館は、大内氏24代弘世が、正平15年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたとされる。
大内氏は、弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は中国・九州地方まで及んだため、山口は西日本の政治の中心地となった。
また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富みと文化を誇ったといわれている。
天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣・陶晴賢の叛乱により滅亡した。
その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)、大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立したという。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

龍福寺を中心に、その周囲一帯が大内氏館跡である。
昭和53年(1978)から発掘調査が何度も繰り返され多くの遺構が発見されたそうで、現在は、平成9年(1997)から始まった復元工事が、着々と進み、土塁・堀・西門・池泉庭園、枯山水庭園が復元され、発掘調査で発見された石組溝が展示されている。
これら遺構とは別に、館跡中心部に建つ龍福寺の庭園には大内氏に関わるものも多く、史料館もある。
また、門前の参道の紅葉が綺麗だった。
(2012/11/18訪れて)

ギャラリー

大内氏館跡の図(現地案内板より)
大内氏館図

【土塁と堀】
最盛期の館は堀を含めると東西160m・南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも言われる。初期は、館は溝と塀で囲まれている程度だったが、15世紀中頃には空堀と土塁によるある程度の防御力を備えた城館になった。
南面の土塁と堀表示
平成9年(1997)復元事業が始まり、土塁が復元整備されている。あまり綺麗すぎて、ちょっと趣きがないかも(苦笑)。
土塁南面

南西部隅の土塁
土塁南西隅

東隅から北面(内側)にかけての土塁
北面の土塁は、他の土塁と較べてやや高い。
土塁北面1

北面の土塁を外側から
土塁北面2

龍福寺裏の復元工事中の土塁
この土塁は、館周囲をめぐる土塁の内部にあり、曲輪を区画するために築かれていたものではないだろうか。そして、この土塁は、かなり多くの部分が良好に残っていたようだ。
土塁北東

南東部の土塁
館跡の東から南東部にかけても土塁が復元されている。この土塁内側に池泉庭園がある。
土塁南東部

【庭園】
発掘調査により、庭園は、平成10年(1998)までに、3ヶ所で見つかり、その内、館の南東部の池泉庭園と北西部の枯山水庭園が復元されている。もう一つの1号庭園は埋め戻されたとのことです。
また、最近(2012年10月)、池泉庭園の北側でも枯山水庭園趾が見つかったそうだ。
池泉庭園
南東部に位置している館跡最大の庭園で、中央部に池がある池泉式庭園で、1400年代末に造られ、1500年代中頃まで使われたようだ。池は、中島のある瓢箪のような形をしており、南北約40m、東西約20mの大きさである。平成4~5(1992~93)の第13・14次発掘調査で発見され、平成23年(2011)に16世紀前〜中頃の様子を復元整備された。池の傍には、石組み井戸跡もある。
池泉庭園

池泉庭園傍の石組み井戸
池泉庭園傍の井戸は、現在、埋め戻されているが、石を組んで造られており、内径約1.2m、深さ約4mある。池泉庭園と同時期に造られ、1500年代前半に埋め戻されたという。井戸からは、外面に金箔をはった土師器皿が出土した。
井戸

枯山水庭園
この庭は、平成9~10年(1997~98)の発掘調査により発見され、平成17年(2005)に復元整備された。
1500年代前半に構築された小規模な枯山水式の庭園であるが、1500年代中頃に火災により焼失した。火災後に庭石のいくつかは動かされ、また、西側の一部は西堀の掘削により壊された。
この庭が造られた頃の当主は大内義隆であり、大内氏の文化も最盛期を迎え、そのため、この庭は華やかな大内文化を今に伝えるものといえる。
この庭は、破壊を受けているものの、比較的良く残していることから、露出して整備することとし、石が抜けた部分には石を補充し、遺構の全く残っていない西部には土手状に盛土をして植物が植えられた。
枯山水庭園

【門】
西門
平成9~10年(1997~98)の調査で、館跡西辺で小規模な門跡が発見された。その配置や大きさから、正門ではなく、屋敷内の内門の一つであったと考えられる。また、礎石が検出されなかったことから、礎石を使わずに門柱の両端を石で押さえて固定する様式の門だったと推定される。 失われた館跡の一部として復元可能と判断されたことから、当時の京都の風景が描かれた「洛中洛外図屏風」などを参考に平成17年(2005)に復元された。
西門

【石組溝】
館跡の西辺の調査で石組の溝が検出され、溝の底には水の流れた痕跡があることから排水溝と推定されている。1500年代前半に造られたが、1500年代中頃、西門が造られる際に埋め戻されたと思われる。発掘調査で発見された石組溝の一部がそのまま展示されている。
石組み溝

【龍福寺】
大内氏館跡の中心部に建つ龍福寺の庭園には大内氏に関わるものも多く、史料館もある。
龍福寺は、建永年間(1206~07)に大内満盛が開基となり、山口の白石で創建された瑞雲寺に始まるという。
天文20年(1551)、陶晴賢が主君・大内義隆に対して起こした謀反(大寧寺の変)に伴う兵火で焼失し、そのままになっていたものを、弘治3年(1557)、毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために現在地(大内氏館の跡地)に再興した。
明治14年(1881)には再び山門など一部を残して全焼したため、明治16年(1883)に、大内氏の氏寺である興隆寺(山口市大内御堀)の釈迦堂(室町時代建立)を移築して本堂とした。
大内氏館跡に建てられた寺ということで、ほぼ境内全域が大内氏館跡(国の史跡「大内氏遺跡 附 凌雲寺跡」の一部)としても整備されているほか、境内にある龍福寺資料館にも貴重な史料を保管・展示している。
龍福寺山門前
龍福寺の山門前には、「大内氏遺跡 館跡」と刻まれた石碑(写真左)と説明板が立っている。
龍福寺

龍福寺本堂
龍福寺は、明治14年(1881)には再び山門など一部を残して全焼したため、明治16年(1883)に、大内氏の氏寺である興隆寺(山口市大内御堀)の釈迦堂(室町時代建立)を移築して本堂とした。
この本堂は、文明11年(1479)に建立されたと言われている。移築後、約100年が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、保存修理を行うこととなり、学術調査を経て、後世の改造部分を復旧して室町期当初の状態に復元することとなり、平成17年(2005)から約6年かけて本堂の改修工事が行われた。

龍福寺本堂

宝現零社
龍福寺境内には宝現零社が祭られている。宝現零社は、大内氏の祖・琳聖太子から31代の大内義隆に至る大内氏歴代当主の神霊を祭る祀で、龍福寺の鎮守としてここに建立されている。
この社殿は、最初、大内教弘が築山館に創建したのが始まりで、大内氏歴代当主によって各忌日には祭祀がなされ、江戸時代には毛利氏によって祭祀がなされていた。
現在の社殿は、江戸時代中頃の建築で、両側に大内氏の家紋・大内菱が付いている。

宝現零社

豊後岩
大内氏は、歴代政庁をこの地に置き、西日本に覇をはっていた。当時、世の中は兵乱に明け暮れていたが、山口の町は平和を保っていたので、戦乱の都を避けて山口へ来る公卿・文人が多くあり、いわゆる西の都の繁栄があった。
大内氏は、これら来訪の客をもてなすために、邸前に宏大壮麗な築庭をした。使用した岩は、全て豊後から舟で運んできたものであった。しまし、そのような立派な庭も大内氏滅亡後は荒廃し、僅か豊後岩だけが残り往時の繁栄の跡を偲ばせている。

豊後岩

鐘楼・梵鐘
この梵鐘は、大内義隆が享禄5年(1533)に九州葦屋の名工大江宣秀に造らせた国の重要文化財「興隆寺梵鐘」を縮小・複製したもので、鐘楼堂は総欅造り入母屋本瓦葺である。平成5年完成。
鐘楼

大内義隆辞世の句碑
天文20年(1551)、大内氏31代義隆は、重臣陶晴賢の謀叛により、大内御殿から長門の大寧寺に逃れた。この時、大寧寺住職異雪慶殊和尚の弟子となり、金剛経の経文を引用した『討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜんかん)』の辞世を詠んで自刃した。時に45歳の生涯であった。
辞世句碑

大内義隆卿主従之供養塔
平成12年が、龍福寺の開基大内義隆の450回大遠忌にあたり、供養塔が建立された。宝篋印塔は、長門市大寧寺にある義隆の墓を原寸大に複製したものである。
供養塔

大内義興「馬上展望」像
龍福寺本堂脇にある史料館の入口に大内義興の像が置かれている。
大内義興像

龍福寺参道
龍福寺の山門前に延びる参道の紅葉が見事だったので掲載しました。
龍福寺参道

ザビエル布教の井戸
参道の山門寄りに「ザビエル布教の井戸」というのがある。天文19年(1550)、ザビエルは大内義隆に会い、布教の許可を得て、大殿大路の井戸の傍で初めてキリスト教の布教をしたと言われている。この井戸は、それを再現したものである。
IMG_6942

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コメント

光田憲雄(2014/11/05)

大内屋形(館ではない。御所に次ぐ屋敷の身分が屋形である)について

山口の人は自虐的であると思う。現在の屋形は、陶晴賢の反乱後に縮小された、一番貧相な姿である。
山口県文書館に『大内時代山口古図』と云うのがある。原本は紛失し写しだけが伝わると云う、実に由緒正しくない古地図である。それでも、その中から真実を読み取ることが出来る程度にはまともである。
この図に、「山口の町を拓くに当たり、京都に都を定めた際の古例に倣って、東西南北中央に、法華経を埋めた」と記すように、明らかに京都を意識している。
(以下原文)
中央ハ札ノ辻ニ法華経ヲ五尺に埋ム。東ハ西法寺ノ上向山ノ嶺ニ埋ム。西ハ鳳弁山ノ半腹ニ埋ム。北ハ七尾山ニ埋ム。南ハ姫山ニ埋ム也。(比)叡山ハ仁保坂本三(山)王七社宮三鬼社二十一社。 (『大内氏時代山口古図』)

 中央・札の辻は竪小路が大市と交差する附近、東・向山は椹野川を渡ったところにある西法寺(現善性寺)の山、西・鳳弁山は今の鳳翩山、北・七尾山は今八幡や神光寺(=現神福寺)の後の山である。後のことだが神光寺は、足利十代将軍義稙が、十一代将軍として復帰するまでの十余年間(一四九四~一五〇八)を過ごした場所である。南の姫山は今も同じ。三田尻方面から市内へ入るには、必ず通らねばならない要害の地にある。だから当時は城が築かれ、道を挟んで反対側の象頭山と共に外部からの侵入者に目を光らせていた。外に比し、西の鳳翩山が少々離れすぎている気がしないでもないが、義興が開基したとされる陵雲寺一帯を加えるなら、西に鳳翩山を選んだのも納得できる。
 それだけではない。弘世は、愛妻のために都を山口へ移すことまで構想していたようである。
(以下原文)
弘世鐘愛の余りに、「さらば都を山口に遷(うつ)すべし」。戚夫人のために洋水を移しし例もあり。新豊の旧社衢巷(くこう)を移ししも、是皆(これみな)郷里(きようり)枌楡(ふんゆ)の蔭を忘れぬは古今の情ぞかし。九重の形象、洛外の山川仏神廟を模せば、西の都と栄えんこと、且つは佳名を千歳の青史に残すべし云々。 (『陰徳太平記』)

また古地図に載せる2カ所の「大内御殿」を併せた面積は恰度京都御所に重なる等々。今の姿は、山口市が設置した説明とは真逆。一番貧相な姿であることを知って貰いたいと思い投稿しました。

タクジロー(2014/11/09)

光田憲雄
詳細な情報をありがとうございます。
山口は、さすが大内氏が権勢を誇った街で、魅力があり、私も大好きです。
また、いろいろお教えください。

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