勝瑞館内を縦横に延びる濠
三好長慶の弟・義賢(実休)の居館
読み方
しょうずいやかた
所在地
徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地
【アクセス】
勝瑞城跡(見性寺)の南西約150m。現在は整備中で、広い空地に駐車できます。
見性寺:板野郡藍住町勝瑞東勝地176
所要時間
今回の見学時間は20分弱
形状
館
現状・遺構等
【現状】 空地(公園)
【遺構等】 曲輪、濠、遺構説明板、会所(復元)
満足度
★★★☆☆
訪城日
2014/10/15
歴史・現況・登城記・感想等
勝瑞館跡は、藍住町教育委員会と徳島県教育委員会により平成9年(1997) - 平成12年(2000)まで発掘調査が行われ、勝瑞城跡とセットで「勝瑞城館跡」として平成13年(2001)に国の史跡として指定を受けました。
発掘調査の結果、居館の構造、出土遺物の質、量から、一時は京都を含む近畿地方を席捲した三好長慶の弟である義賢(実休)の居館跡と推定されています。
館は、東西約120m、南北約150mの方形区画で、大規模な濠で区分けされた複数の曲輪からなる複郭式の館であったと推定されています。
但し、往時の城館は北東約150mにある「勝瑞城跡」や周囲の宅地・田園部分も含めた敷地が「勝瑞城館」で、さらに多くの曲輪によって構成された巨大な城館だったのではと思われます。
明確に館跡とされる区域は、現在も断続的に発掘調査が実施され、さらには将来的に史跡公園とするべく整備事業が推進されています。
館跡では、縦横に延びる濠跡や枯山水庭園、礎石建物跡などが発見され、濠跡はセメント?で固められて保存維持され、会所と思われる礎石建物の一つが復元されています。
整備が終わったら、また登城したいものですネ。
(2014/10/15登城して)
ギャラリー
勝瑞館と勝瑞城の位置関係(現地案内板より)
往時の城館は北東約150mにある「勝瑞城跡」や周囲の宅地・田園部分も含めた敷地が「勝瑞城館」で、さらに多くの曲輪によって構成された巨大な城館だったのではと思われます。
勝瑞館整備イメージ(現地案内板より)
館跡は、現在も断続的に発掘調査が実施され、さらには将来的に史跡公園とするべく整備事業が推進されています。
①礎石建物(主殿?)跡
勝瑞館跡へは、東側から入って行きます。館跡へ入ると、すぐ左前方に発掘調査中でブルーシートに覆われた礎石建物跡があります。かなり規模が大きく主殿跡のようです。また、写真左には枯山水庭園が発見されたようですが、埋め戻されたようでした。
②館跡中央部を南北に延びる濠
左手に礎石建物跡を見て、館内奥へ入って行くと、セメント?で固められて保存維持された濠跡が見えてきます。濠の規模は幅10~15m、深さ3~3.5mあります。濠底には常に水が溜まっていたことを示す有機質粘土層が堆積していたそうで水濠であったことがわかります。また、その粘土層からは、呪符木簡やこけら経・卒塔婆・漆椀・柄杓・独楽などの大量の木製品をはじめ貴重な資料が多く出土しているそうです。尚、写真やや右奥に見えるのは復元された会所です。
③二重濠
館跡中央部を南北に延びる濠の南部は二重濠になっています。
④館跡中央部を東西に延びる濠
館跡を南北に延びる濠の真ん中あたりからは、東西に延びる濠も設けられています。
⑤館内の区画溝
会所(写真右)の東側に、建物と軸を同じくした溝が検出されました。この溝から東側(写真左側)は生活面が低くなっており、また、出土する遺物も鍋・釜などの煮炊具や壺・甕などの貯蔵具が多くなるなど様相が異なることから、恐らく、この溝から東側(写真左側)は日常生活の空間であったと考えられます。
⑥会所(復元)
この建物は最大で南北7間(約14m)×東西4間半(約9m)で約120㎡の広さがあり、礎石には30~50cmの砂岩が使われています。周辺から出土した遺物の性格などから、城館内でサロン的な役割を果たす「会所」跡と推定されています。
⑦枯山水庭園跡
会所の前には枯山水庭園が出土したようですが、埋め戻されており、幾つかの石だけが顔を覗かせていました。