本丸跡、奥の建物は長崎県忠霊塔
キリシタン大名大村純忠「七騎篭り」の城
所在地
長崎県大村市三城町
形状
平山城(標高:38m)
現状・遺構等
遺構等:曲輪、堀切
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2003/12/21
2007/02/12
歴史等
永禄7年(1564)、キリシタン大名として知られる大村純忠が築城し、城下北西にあった大村館から移った。
純忠時代は家督相続やキリスト教信仰に関連する一族・家臣の分裂や領土拡張をねらう周辺勢力、さらに南蛮貿易が生む利益など、
複雑にからみ合う問題から争いが絶えなかった。中でも、後藤氏の養子になった武雄城主・後藤貴明は、
本来自らが継ぐはずであった大村氏の養子となった大村純忠を敵視し、事あるごとに純忠を攻撃した。
特に、元亀3年(1572)の「三城七騎篭り」の時は、純忠は大きな危機に陥った。諫早・平戸・武雄領から総勢1500名の軍勢が、
三城城を包囲した。この時、城内には純忠・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱の7名、他その家人、
家族たちで総勢80人くらいであったという。多勢に無勢、抵抗したものの城は風前のともしびであった。この時、
城外にいた富永又助は西郷勢を撹乱して入城し、純忠は大いに喜んだという。その後、加勢が入城したので貴明も撤退したという。
三城城は、主要な3つの曲輪からなっており、大きな横堀で分けられ、なかば独立している。三城城の由来はこのことからきているという。
『「大村市ホームページ」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
富松神社の脇の道を登って行くと本丸跡に出る。道の脇の山を削った感じは、多少は城跡っぽい風情があるが、本丸跡はかなり広いが、
長崎県忠霊塔以外何も無く、ただの公園の広場のようである。
(2003/12/21登城して)
前田さんという地元と思われる方から当HPにお城コメントを戴き、「土塁や堀等の遺構が残っている」とのお城コメントを戴いたので、
2003年12月21日以来、約3年ぶりに長崎時代の仲間と3人で登城をした。
前田さんから教えて戴いたように、確かに、慰霊塔の裏あたりに、堀跡が残っていた。喜んで写真を撮っていると、
私達を胡散臭い奴等だと思ったのであろう。慰霊塔の管理人さんらしき人が出てきていろいろ尋ねられた。最近、
この近辺で何かとあるらしいのだ。
ついでにその方に、その遺構について尋ねたところ「明治時代に堀等は、曲輪の土を削り、一度埋められててしまった。そして、
その後陸軍の管轄となり堀を掘り戻したとのことである。従って、この堀は、場所や輪郭は近いであろうが、
江戸時代のものとは必ずしも一緒ではない。また、その他の地形も大きく変えられてしまっており、
往時の様子とは全く違っていると考えた方がよい。云えることは、この場所に三城城があったということだけである。」とのことで、
がっかりして帰ってきた。
(2007/02/12登城して)
ギャラリー
富松神社からの登城道
道の左側は人工的に削ったものであろう。
登城道
山を削ってあるが、
石垣は後世のものと思われる。
忠霊塔裏にあった堀跡
「明治時代に堀等は、
曲輪の土を削り、一度埋められててしまった。そして、その後陸軍の管轄となり堀を掘り戻したとのことである。従って、この堀は、
場所や輪郭は近いであろうが、江戸時代のものとは必ずしも一緒ではない。」とのことである。しかし、
大方は江戸時代のものに近いとも云えると気を取り直して・・・・・。
帯曲輪?
本丸下に明らかに帯曲輪跡らしき削平地があった。
「陸軍用地」
の碑
忠霊塔の管理人らしき方が言っていたように、この城址は一時陸軍の用地だったようで、
この石碑がいくつも立っていた。