二の丸跡に残る石垣
肥前西部最大の戦国大名・有馬氏の本拠
所在地
長崎県南島原市北有馬町戊(谷川名)
形状
平山城(標高60m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、石段、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2003/12/19
2007/02/11
歴史等
日野江城は肥前西部最大の戦国大名・有馬(鎌倉時代は有間)氏の居城である。同氏については藤原純友末孫説もあるが、
実は肥前高来郡有間庄を本貫とする豪族である。日野江城は同氏の初代・経澄が健保年間(1213-1219)に築城したとも伝えられるが、
実際は南北朝頃の築城であろう。
築城以降、勢力を拡大していった有馬氏は、1550年代には島原半島から肥前東部一帯21万石を領有し、現在の長崎県、佐賀県に十一城
(といちじょう)と呼ばれる支城の連絡網を張り巡らせ、広大な領域を支配した。
第13代当主の有馬晴信は天正7年(1579)洗礼を受けキリシタン大名となった。天正8年(1580)、イエズス会の中等教育機関
「有馬のセミナリヨ」が城下町に創立された。天正10年(1582)には卒業生による日本初のヨーロッパ派遣団「天正遺欧少年使節」
がローマに派遣され4少年は8年半を要し帰国した。帰国の際、日野江城で8日間にわたる報告会が催され、
完成したばかりの屋敷に案内された時の様子が、イエズス会年報で「大小の部屋に全て黄金の品や典雅な絵画が飾られていた。この屋敷は、
最近有馬殿の手で建てられ見事な出来栄えとなった城郭の中にある」と報告されている。
豊臣秀吉の天下統一以降、有馬氏は、秀吉、そして次の天下人である徳川家康の臣下となり、島原半島4万石を支配することとなったが、
慶長19年(1614)有馬直純が日向延岡に移封された。
その後には、元和2年(1616)に大和・五条から松倉重政が入封し日野江城に入ったが、やがて島原城に移り日野江城も廃城となった。
『現地説明板参照』
現況・登城記・感想等
日野江城は有馬氏の本城であるが、支城の原城ほど知られていないようである。
長崎や島原在住の人に聞いてもほとんどの人が知らなかった。
日野江城の発掘調査が進んでいるとの新聞記事を見て、長崎へ行く機会があったので立ち寄った。
中でも、本丸へまっしぐらの100mもの石段には大きな期待を持って行ったが、
残念ながらブルーシートが被せられた状態で見ることは出来なかった。その石段の脇の石垣の石は方形に切られ、
当時ではまだなかったもので海外技術ではないかとのことである。また、石段には五輪塔などがかなり使われているとのことである。
有馬氏は口之津という天然の良港を直轄しており、口之津は長崎半島と天草の間を抜け海外とも直結していたのがよく分かる。
二の丸あたりは、かなり発掘が進んできているようであったが、本丸付近はまだまだのようであった。発掘調査の進行とともに、キリシタン大名・
有馬氏の文化の全容が解明されてくるのが楽しみである。また、調査が進んだ何年後かに再登城したいと思う。
(2003/12/19登城して)
2003年12月19日以来、約3年ぶりの登城である。今回は、時間の関係もあり大手口からのみの登城にした。
前回から、あまり発掘調査が進んでいないようで、大手口側からは、相変わらず本丸までは行くことが出来ないようであったが、
今回は取り敢えず登れる所まで登ってみようということで、登ってみた。多少藪こぎはしたものの、
本丸のすぐ下の曲輪跡らしき結構広い削平地へ到着した。そこから、本丸方向に登っていく如何にも往時の登城道らしき道があったが、
残念ながら、その登城道はブルーシートで覆われ、その手前に虎ロープが張ってあり、進入禁止となっていた。
(2007/02/11登城して)
ギャラリー
大手口跡
二の丸跡①
二の丸跡②
右の砂袋・
ブルーシートの所が本丸へまっしぐらの石段。
二の丸跡からの眺望①(有明海方面)
二の丸跡からの眺望②(雲仙普賢岳方面)
大手口からの道はここでSTOP
登城道はブルーシートで覆われ、その手前に虎ロープが張ってあり、
進入禁止となっていた。
本丸跡
㊧本丸跡からの眺望、
㊨本丸跡にて