復元された天守
分不相応な築城が圧政を生み、島原の乱を起こす
別名
森岳城、高来城
所在地
長崎県島原市城内1-1183-1
形状
平城(標高27m)
現状・遺構等
遺構等:復興天守・模擬櫓・曲輪・石垣・曲輪・堀
満足度
★★★☆☆
訪城日
1992/10
1992/11/23
1994/08/29
歴史等
島原はもともと日野江城を拠点とする有馬氏の領地であったが、
慶長19年(1614)有馬直純が日向・延岡に移封されたあと、元和2年(1616)に大和・五条から松倉重政が入封し、日野江城に入った。
重政は、元和元年(1615)の一国一城令で、主城を造ろうと城地を物色し、当時、有馬の属城があった「森岳」の地を選んだ。
日野江城をはじめ原城やその他30余りの城や砦を壊し、
そこから森岳へ石材を運び島原城の建設を開始した。元和4年(1618)に起工、以後、7年3ヶ月をかけ、
延べ100万人の人夫を徴発して完成した。出来上がった城は、4万石の大名としては分限をこえる規模のもので、
10万石の大名に匹敵するものとなった。
しかし分不相応な城造りは、当然、領民にそれだけの犠牲を強いることになる。この無理な築城のために、島原の領民には過酷な年貢がかけられ、
加えて人夫として労力までとられることとなった。その上、重政はキリシタンの多い島原で非人間的で過酷なキリシタン弾圧を行った。
重政死後も、跡を継いだ2代目の松倉勝家も父と変らぬ圧政を行い、我慢の限界を超えた領民はついに寛永14年(1637)、「島原の乱」
を起こした。一揆は結局、島原城を落とせず、やがて原城の跡に籠城。
幕府の大軍を相手に激戦の末、翌年2月末に全滅した。
この後、松倉勝家は責任を問われて、江戸で打ち首になったとされる。 大名の打ち首は、江戸時代でも異例のことである。この後の城主は、
高力・松平・戸田、再び松平と四氏250年と続き明治を迎えた。
『参考文献:日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)、日本100の城(日本交通公社刊)』
現況・登城記・感想等
島原半島は決して肥沃の地ではなく、見るからに赤くて痩せた山の土であり、それだけに今でもジャガイモの大産地である。
江戸時代初めは米が全てであるから、この地の農民は貧しかったであろう。そんな中での過酷な税は、途轍もなく苦しかったであろう。
五層の天守閣といい、本丸と二の丸の高石垣といい、はたまた非常に深い堀といい、
どれをとってもかなり大掛かりな作業であったろうことがよく分かる。
過酷なキリシタン弾圧だけでなく、4万石の大名には分不相応な大規模な城造りのための過酷な税と苦役が「島原の乱」
を惹き起こしたというのがよく分かるような気がする。
また、司馬遼太郎が「街道をゆく」で云っているが、「破風」のない島原城の天守閣というのは確かに妙な感じである。(尤も、
すっきりしているといえばすっきりしているが)
島原城へは長崎着任して間もない1992年10月に登城した。まだ、雲仙普賢岳の噴火による災害真っ盛りの頃で、
島原城内には自衛隊のトラックのみならず、戦車まで止まっていて物々しい雰囲気であった。また、
土石流により多くの家屋が土石に埋没してしまっている地区が残っていた。
そんな中でも、島原の人たちは皆明るくて豪快な人が多くて、私は長崎県の中でも非常に好きなところである。
(1992/10登城して)
【島原の食】
島原の食といえば、「がんば(島原ではフグのことを”がんば”という)
」「具雑煮(島原の乱の時の保存食といわれる)
」「寒ざらし
(白玉団子を湧水で冷やし特製の蜜をかけたもの)」「おこぜ料理」「伊勢海老」
などが有名であり、どれも美味いが、私は何と言っても島原のヒラメは最高に美味いと思う。
ギャラリー
大天守
五層の立派な大天守。破風がなく何か物足りない感じがする? すっきりしている?
雲仙普賢岳の噴火による災害対策のために自衛隊のトラックが城内に(1992年10月)
武家屋敷
三の丸跡あたりに武家屋敷がある。溝には澄んだ水が流れている。島原は水が豊富なことでも有名だ。
逆に、築城時には掘るとすぐに湧き出る水には悩まされたらしい。