本丸東門枡形
薩摩との境目に総石垣で築かれた加藤清正の支城
読み方
さしきじょう
所在地
熊本県葦北郡芦北町佐敷字中丁49番1号ほか
【アクセス】
佐敷駅の北西側で国道3号から東へと県道27号に入る。陸橋を渡って県道27号は左折になるが直進する。500m程東進して右折し、県道305号に入ります。そこから600m程南下して右折し(ここの城跡の案内有り)、道なりに上がっていくと突き当りが佐敷城跡城山公園で、駐車場やトイレが完備されている。尚、佐敷の町には、いろんなところに案内板があるので、すぐ分かると思います。
所要時間
山腹の駐車場から山頂部まで約3分
形状
山城
現状・遺構等
【現状】 佐敷城跡城山公園(国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、石垣、虎口、堀切、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2012/11/15
歴史等
佐敷城の名は、古書に、在地の豪族・佐敷氏が拠る城として南北朝時代から登場するが、その城が佐敷城のことか、東に位置する「東の城」のことかは不明である。
その後、人吉城の相良氏による芦北郡への勢力拡大があり、永禄2年(1559)には肥後守護・菊池為邦から相良氏の芦北郡の領有が認められた。
天正9年(1581)、島津義久は水俣城を攻撃して、相良氏を降して芦北郡を得て、宮原景種を佐敷城主とした。更に、島津氏は八代郡も併合し、肥後へ進出する道が開け、以後九州各地を攻略したが、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐により、肥後の諸城を放棄して撤退を余儀なくされた。
豊臣政権の下で肥後の領主に任じられた佐々成政の統治は国人一揆によって短期に終わり、天正16年(1588)、葦北郡は肥後北部半国を拝領した加藤清正の飛び領地となった。
清正は花岡山に石垣を巡らした近世の佐敷城を築き、加藤重次を城代として置いた。
文禄元年(1592)、城代の加藤重次が朝鮮出兵の不在に乗じて島津歳久の家臣である梅北国兼が佐敷城を占拠したが、留守役達の働きで梅北国兼は討ち取られ、佐敷城は奪還された(梅北一揆)。
朝鮮から帰国した加藤氏は島津氏への押さえとして佐敷城のさらなる普請を行ったが、慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が起こると、西軍方の小西氏と島津氏に挟まれた葦北郡は孤立し、佐敷城は島津忠長の軍によって包囲されたが、加藤重次は、関ヶ原合戦での西軍敗北の報が伝わり島津軍が兵を引くまでの約1ヶ月間守りきった。
佐敷城は、その後も加藤重次が城代を続け、増改築は続けられたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
その後、細川時代には、佐敷は藩内の要地として佐敷御番所が置かれた。
『「日本城郭大系18」、「ウィキペディア」、「現地説明板」他参照』
【佐敷城の破城と石垣について】
佐敷城は、元和元年の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永15年(1638)、天草、島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されました。
城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違いなどから三時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅角部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。
発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄、慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。
また、本丸周辺からは、かわらけとともに魚の骨や貝殻が出土し、宴会を楽しむ人たちの姿を想像することができます。このように佐敷城跡は、石垣築造技術の進歩や一国一城令による破壊の実態等、近世初頭頃の政治、軍事を知るうえで重要な遺跡であるとして、国史跡に指定されました。
(現地説明板より)
現況・登城記・感想等
佐敷城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成されていたが、元和元年の一国一城令によって破城された。
平成5年(1993)から平成13年(2001)にかけて発掘調査が行われ、平成9年(1997)から石垣などが復元された。
復元された佐敷城は、規模こそ大きくはないものの、総石垣の城郭の姿は素晴らしく、中でも大手門から二の丸東門、本丸東門にかけての枡形虎口は見応えがある。
現在、山頂部は、木々が切り払われて、山腹の駐車場からも見事に復元された石垣群の姿が望める。勿論、本丸から見下ろす360度のパノラマは絶景です。
(2012/11/15登城して)
空撮(動画)
Mizocchさんより佐敷城の空撮動画を送ってもらいましたので紹介します。空撮でないと表現できない佐敷城の姿が見えます。「佐敷城空撮」をクリックしてみて下さい。
佐敷城空撮
ギャラリー
佐敷城縄張図(現地説明板より)
山腹の駐車場から山上の石垣を見上げる
佐敷城跡は、山腹まで車で登って行く。行き止まりが駐車場で、そこには石碑や説明板が立っている。そこから山上を見上げると、立派な石垣が見える。
搦手門跡
3分ほど登って行くと、搦手門跡の石垣のところへ出る。石垣の上の方が欠けているのは破城によるものでしょう。
本丸西門跡
搦手門跡から石段を登って行くと、本丸西門跡へ出る。小規模ながら枡形虎口になっている。
本丸西門枡形
本丸西門を登って振り返って撮ったものです。桝形がかっこいいです。
本丸への虎口
本丸西門跡から左手を見ると本丸への石段がある。かなり狭いです。
本丸西側の石垣
この写真は、本丸虎口前から右手を見たところです。石垣下の腰曲輪は、本丸南下の二の丸へ続いています。
本丸を区切る堀切?
本丸は堀切状の窪みで区画されている。写真右側の曲輪(本丸)の方がかなり広い。尚、この堀切?は、東西に延びて大手門口と搦め手門口とをつないでいる。
堀切?で区画されている本丸
南側(写真左)の曲輪(本丸)は、かなり広いが、北側(写真右)は、かなり細長く、多聞櫓でも建っていたのでしょうか?
本丸上
本丸から見下ろす西方面の眺望
本丸から眺める360度のパノラマは絶景で、特に、西方面は不知火海やそこに浮かぶ島々もよく見える。
本丸から二の丸方面を
本丸の南側には二の丸・三の丸が設けられている。曲輪に植えられた芝生の緑と、その向こうの田園や山並みとのコラボがいいですね。
本丸東門枡形
この本丸東門の枡形虎口も小規模ながら絵になりますね。
二の丸跡
正面奥の石垣上が本丸で、右側の枡形は二の丸東門跡で、その奥に本丸東門の枡形の石垣が見えます。
二の丸東門枡形
二の丸跡から二の丸東門枡形を撮ったものです。見事な石垣で築かれた枡形です。
二の丸跡から三の丸方面を
私は、てっきり二の丸のすぐ下のこの曲輪が三の丸と思っていたのですが、縄張図によると、二の丸は2段からなり、その更に下に三の丸があるようです。ということは、これは二の丸下の段ということになりますね。お蔭で、三の丸跡を見落としてしまいました( ̄ー ̄;。
二の丸下の段から二の丸上の段を
二の丸下の段中央にに突き出た石垣の段は、何らかの建物があったことは間違いないでしょうが、その役割は分かりません(/。ヽ)。1種の横矢のようなものでしょうか?
大手門枡形
大手門の枡形も見事です。また、眼下に見える田園や町並みと背後の山並みとのコラボもいいですね。
大手門跡
大手門跡まで下りて行って、見上げる幾重にもなった石垣群は、小規模とはいえ、かなり迫力があります。強烈な、逆光(西日)で、こんな写真しか撮れなかったのが残念です(/。ヽ)。