本丸西側で発掘された高石垣、枡形虎口、石垣遺構
加藤清正自ら縄張りをした端城の一つ、平成の発掘調査で再び現れた幻の城
読み方
たかのはるじょう
別名
南関城、南関新城、関ノ城
所在地
熊本県玉名郡南関町大字関町
【アクセス】
「南関御茶屋」の裏山が城跡。南関御茶屋の南側にある南関町公民館・南関町役場駐車場を利用。
南関御茶屋:南関町大字関町1141-2、電話0968-53-0859
所要時間
南関御茶屋から山頂の本丸跡まで5分ほど、今回の見学時間は50分ほどでした。
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、標柱、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2013/11/26
歴史等
南北朝のときに築城された藟嶽城(南関町大字関東)が、南関地域の支配拠点として代々使用され、加藤清正の肥後入国後、藟嶽城の城代には加藤清兵衛が就きます。後に清兵衛は失脚し、新たに藟嶽城の城代として、加藤美正次が引き継ぎます。
鷹ノ原城築城の細かい経緯はわからないが、宝永3年(1706)に井沢蟠龍によって書かれた「南関紀聞」には、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後に加藤正次の願いにより築城を開始し、清正自ら縄張りを行ったと記されている。清正は、この前年ごろから熊本城の普請や、佐敷城、内牧城など境目の番城の強化にとりかかっており、鷹ノ原城の普請もこのころ始まったと推測される。
鷹ノ原城は、築城開始からわずか15~16年の元和元年(1615)の一国一城令により、八代城(麦島城)を除く、ほかの支城とともに破城されたと考えられる。
さらには、肥後では天草・島原の乱の後の寛永15年(1638)に、国内の廃城を再調査し、水俣城や佐敷城あるいは竹迫城など、破却の不十分な城は再度の破却に及んでいることから、鷹ノ原城跡も同時期に2度目の破却が実施されたのではないかと思われる。
平成7年度から鷹ノ原城跡の発掘調査が南関町教育委員会によって実施され、破却時の様子や城の規模などが徐々に明らかになってきている。特に、本丸部分の基礎工事は盛土によるもので、堀切を掘った際の土が利用され、その土量は、10tダンプで約8,000台分にも及ぶと推定される。
また、東西の虎口跡や、本丸隅櫓台跡も確認された。壊された石垣の石材は、ひとつひとつ運んで、空掘の底一面に敷き詰め、堀の斜面を削った土で覆い隠されていました。
『「現地説明板」、「第二部シンポジウム資料(九州文化財研究所)」、「第三部加藤清正の端城と地域の文化財(九州文化財研究所)」他参照』
現況・登城記・感想等
鷹ノ原城は、東西に長くのびる標高100mの台地を4本の堀切が分断し、東から二の丸、本丸、三の丸と配置され、その城域は支城としては不釣合いなほど広大で、東西約600m、南北約200mあり、曲輪の総面積は9万㎡を越え、台地の裾部までを城域とみれば、約17万㎡にもなります。
鷹ノ原城は、2度(数度?)にわたる破城を受けているようです。しかも、その破却の仕方は生半可なものではなく、城が存在したことすら否定してしまうばかりの凄まじさで、城の痕跡をすべて土中に葬り去って、もとの台地に戻してしまったといい、以後、「城があった」という伝説は伝わっていたが、何処にあるか分からないという『幻の城』になっていたそうです。
今回、鷹ノ原城跡へは、あまり知識がないまま登城しましたが、さすが加藤清正自らが縄張りをした城です。やっぱり、清正の城にハズレはありませんでした。
徹底的に破壊されてはいますが、本丸西側の高石垣、枡形虎口、石垣や櫓跡など、まさに織豊系城郭の魅力たっぷりです。それどころか、逆に、その破城のされ方そのものが見どころでさえあります。
ただ、現地に遺構や破城などに関する説明板がなく、情報ゼロで登城した私は全体像がもう一つ分かりませんでした。
現在は、まだ本丸周辺一部だけしか発掘調査が進んでないようですが、将来、さらに調査が進んだら、どれほど魅力ある城跡が現れるのか楽しみです。その際には、是非、再登城したい城跡ですネ。
(2013/11/26登城して)
ギャラリー
鷹ノ原城を見上げる
南関御茶屋の背後の山が鷹ノ原城跡です。
官軍墓地と鷹ノ原城跡への案内
鷹ノ原城の本丸跡には、明治10年(1877)の西南の役で、薩摩軍と戦って死亡した政府軍の将兵77名の墓地があり、登り始めるとすぐに、鷹ノ原城跡への案内柱とともに、官軍墓地への案内柱も立っています。
腰曲輪
さらに登って行くと、右手に本丸南下の腰曲輪があります。
官軍墓地
山頂部の本丸跡に到着すると、官軍墓地へ出ます。
本丸跡
官軍墓地の奥(北側)です。本丸の西部分になります。
官軍墓地の西側の発掘遺構
官軍墓地の西側には、発掘されて現れた鷹ノ原城の遺構があります。何らかの建物跡のようですが、よく分かりません。
本丸西側の堀切(本丸側から撮影)
平成10年の発掘調査で見つかった本丸西側の堀切跡です。徹底的に破壊されています。特徴的な破城の痕跡は、石垣を壊しその壊した石材を一つひとつ運んで、空堀の底一面にびっしりと敷き詰めて、堀切底部は壊された石材で埋め尽くされていた様子が分かります。堀切の奥が三の丸跡です。
本丸西側の堀切(堀切の南側から撮影)
高石垣、枡形虎口、石垣や隅櫓跡(写真奥)など、まさに織豊系城郭の魅力たっぷりです。
本丸西側の堀切跡(三の丸側から撮影)
高石垣、枡形虎口、石垣の折れなどまさしく織豊系城郭のセオリーに則って築かれた城であったのがよく分かります。見事に破壊されているとはいえ、本当にかっこよくて感激ものです。
本丸北西端部の隅櫓台跡
本丸の北西端部で検出された隅櫓台跡です。隅櫓台は、横矢掛りを2箇所突出させる形式のものです。発見した石垣は城が完成した時点では地下に埋め殺される、いわば「捨て基礎」にあたる部位の石垣ですが、目には見えない地下に少なくとも3m~3. 5mの基礎石垣が築かれていたことになるそうです。
隅櫓台跡の北側の石塁跡
隅櫓台跡の北側には石塁があり、その奥は急崖になっています。
隅櫓跡から堀切方面を
写真左側が本丸ですが、本丸への虎口の様子が何となく分かるような、分からないような( ̄ー ̄;
三の丸跡
三の丸跡は、ほとんど発掘調査がされていないようで、多くが畑地になっています。
本丸中央部
本丸中央部も、あまり発掘調査がされていないのでしょうか?
本丸西虎口周辺の遺構①
本丸西虎口周辺は、かなり発掘調査がされたようですが、説明板などが皆無で、よく分かりませんでした。周囲を土塁で囲まれていますが、何でしょうか??
本丸西虎口周辺の遺構②
本丸西虎口の北の方にあった遺構です。石垣で固められた土壇があります。建物跡には違いないのですが、どういった建物かは??
本丸西虎口脇の遺構
本丸西虎口横にあった遺構です。しっかり石垣で固められていますが、虎口を守る建物跡でしょうか?
本丸西虎口に至る石垣
石垣沿いに登って行った先が、ちょっとした枡形になっています。多分、そこが西虎口だと思うのですが・・・? 自信はありません( ̄ー ̄;。
石垣・石垣・石垣・・・
西虎口を出て、どんどん下りて行くと、周囲は未整備状態になってきますが、至る所に石垣跡が確認されます。
堀底道
さらに下りて行くと、深い堀底道になります。当写真は、城跡の東側の平坦地へ出てから、振り返って撮ったもので、城内への入口になります。切岸上まで5mはゆうにあります。上から攻められたら、たまったものではありません( ̄ー ̄;。
堀底道(上写真)を上から見下ろす
堀底道の凄さが分かって戴けると思います。
鷹ノ原城跡を
鷹ノ原城跡の南面を東麓から撮ったものです。南面の切岸も、かなりのものであるのが分かって戴けると思います。