豊前 光岡城(宇佐市)

光岡城東側の土橋と虎口

大友氏に属した赤尾氏の城、曲輪周囲の土塁と空堀が良好に残る

別名

赤尾城

所在地

大分県宇佐市赤尾字光岡
【アクセス】
けいあい保育園の西側の道(案内板有り)を南進し、500mほどで左へカーブしたところ(案内板有り)を右折し、突き当たりを右折すると左手に登城口(広いスペース有り)があります。ここからさらに、光岡城址公園の道を登ると城址へ出る。駐車場が完備しています。
けいあい保育園:宇佐市大字赤尾4520-1、電話0978-32-1095

所要時間

今回の見学時間は30分弱でした。

形状

山城(標高130m、比高約50m)

現状・遺構等

【現状】 光岡城址公園
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、土橋、建物復元表示、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/11/28

歴史等

光岡城は、貞和6年(正平5年、1350)に赤尾種綱によって築かれた。
赤尾氏は宇佐郡高家郷吉田の地頭で代々、中国地方の戦国大名大内氏に属していたが、弘治2年(1556)大友義鎮が豊前に侵攻すると、赤尾賢種は大友氏に降った。
天正6年(1578)大友氏が日向遠征で大敗したあと、豊前地方の武士たちは大友方と反大友方で戦いが繰り返されたが、賢種は一貫して大友方に属し、時枝城の時枝氏、佐野城の佐野氏と抗争を繰り返した。
安心院町の佐田家の古文書に当城のことが記され、天正8年(1580)に城井鎮房・長野 統秀・時枝鎮継らの軍勢が、赤尾統秀の宅所(居館)と切寄(城館)を攻撃したが、佐田氏(安心院町)の援軍もあり撃退したとある。
『「現地説明板」、「日本城郭大系16」参照』

現況・登城記・感想等

光岡城跡は発掘調査が行われ、城址公園として綺麗に整備されています。
在地領主の小さな規模の城ですが、山頂部の曲輪周囲を深く掘られた空堀と二重の分厚い土塁がめぐる城跡はなかなか見応えがあります。
山頂部の曲輪は南北80m、東西35mの長方形で、周囲をめぐる外側土塁までの規模は南北140m、東西80mになります。
曲輪内には、建物跡の掘立柱建物の復元表示がされています。
曲輪周囲の内側土塁は2~3mほどあり、北東隅と南西隅に物見櫓が建てられていたと思われる櫓台があり、東西にも土壇状に張り出した部分があり、これも物見台のようです。
空堀は、幅5~6mあり、深さは概ね内側土塁から6mほどあり、深いところでは9m近くあり見応えがあります。
また、北東隅には虎口があり、そこへ渡る土橋とその両側の空堀の光景も見応え充分です。
ただ、芝生が綺麗に張られているため、城跡内でゴルフ練習をしている不届きものが居た。確かに、アプローチの練習にはピッタリですが危険です。腹が立ちましたヽ(`⌒´)ノ。
(2013/11/28登城して)

ギャラリー

光岡城縄張り(現地案内板より)
光岡城縄張

曲輪全景(曲輪の北から撮影)
曲輪内には4棟の建物跡の復元表示がされ、周囲には土塁がめぐっています。
曲輪全景

曲輪全景
曲輪周囲を土塁がめぐっている様子がよく分かると思います。
南西櫓台から全景

西側の土塁
土塁の高さは、曲輪内から2m以上あります。写真左奥の土壇状に張り出しているところは物見台で櫓が建てられていたと思われる。
西側土塁

南側から東側(左奥)にかけての土塁
土塁幅は、上部でも4mほどある分厚いものです。南側の空堀(写真右)は、あまり深くありません。
南側土塁

東側の土塁
東側土塁

北東隅の櫓台
ここからは、今も、宇佐平野がよく見えます。
櫓跡

南西隅の櫓台
櫓台上へ登る石段が設けられていますが、往時のもののようです。
南西櫓台

北側の空堀
駐車場に車を停めて、城跡へ向かうと、まず最初にこの空堀が左手に見えます。この空堀を見た時点で、当城跡が充分見学するに値することを実感します。
北側空堀

西側の空堀
さらに城跡は向かうと、公園入口の右手にこの空堀が見えます。両側に切り立つ土塁は、どちらも高くて迫力充分です。内側土塁(左側)は、高いところでは堀底から9m近くあります。
西側空堀2

東側の空堀
この東側の空堀も、なかなか深くて迫力があります。
東側空堀

北東隅の土橋と虎口
虎口へ通づる道は坂になり、土橋手前も城内側虎口の両側ともに高くなっており、それなりに防御を考えた造りになっています。土橋とその両側の空堀、そして虎口の光景はなかなかのものです。
土橋

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